急遽、避難所になった女川原子力発電所内の体育館。避難生活に伴うルールは、所員、住民双方が協議し、決められていった
急遽、避難所になった女川原子力発電所内の体育館。避難生活に伴うルールは、所員、住民双方が協議し、決められていった

 急ごしらえの避難所となった東北電力女川原子力発電所体育館。約3カ月に及ぶ運営管理は2011年3月15日以降、地域総合事務所課課長の土田茂(現・同事務所所長)、主任の菊田幸二(現・同事務所課長)らに委ねられた。

PICKH20200309_A1001000100100003 震災当日11日に石巻市鮎川地区にある牡鹿総合支所にいた土田は、津波が鮎川港の防波堤を越え、集落の家々を流し去る惨事を目の当たりにした。13日の昼すぎ、所員4人と発電所へ向かったが、途中の道路は一部崩落。車を降り、約10キロメートル歩いて発電所にたどり着いた。午後4時半を回っていた。

 娘の卒業式のため休暇を取っていた菊田は、宮城県富谷市にある自宅近くで大きな揺れに襲われた。ラジオで女川町が津波被害に遭ったことを知る。女川入りしたのは13日昼頃。町内の光景に言葉を失った。戦争でも起きたのか――。町の中心部に「あったはず」の事務所も、建物ごと消え去っていた。
 
 ◇気晴らしの花見
 
 土田、菊田ら事務所員が体育館の管理運営を託されたのには理由がある。日頃から地域住民と交流があり、避難者をある程度知っていたためだ。避難者の存在を知った土田は、「頼って頂いた。信頼されているんだな」と感じた。菊田は、普段から付き合いのある人たちが「無事でよかった」と思った。

 避難者との間で「生活の規律」を作った。各地区の代表者に集まってもらい、連日、「避難所運営会議」を開いた。不都合なことはないか、救援物資をどう分けるか――。議題は多岐に及んだ。体育館内の清掃を当番制で実施することや、消灯時間を午後8時にするといったルールを決めていった。

 体育館内の雰囲気を菊田は、「初期の頃は緊張からか、表情が硬かった」と振り返る。だが、時間がたつにつれて和らいできたという。土田は「家財が流されたり、家族が行方不明という方も多かった。不安と悲しみの中にあっても、避難者は前向きに考えて行動していた」と話す。

 発電所内の桜が咲く頃、所長の渡部孝男(現・顧問)が総務課副長の目黒桂一(現・ビジネスサポート本部総務部総務課長)らに「花見をできないだろうか」と問い掛けてきた。「思いも寄らぬ発想」(目黒)だったが、制約がある避難所生活を送る住民の気晴らしになる。発電所に、石巻市の「スコップ三味線」サークルに入っている幹部、若手社員がいた。その社員がサークル仲間を呼び、栓抜きでスコップをたたく芸を披露した。踊りを舞う避難者もいた。

 レクリエーションは他にもあった。ゴスペルやアカペラを披露するボランティアがいた。その音色に涙する避難者もいた。青森県東通村からは、手打ちのそばを振る舞いに来てくれる有志がいた。
 
 ◇やるべきことを
 
 6月6日、最後まで残っていた避難者が荷物を運び出し、二次避難先へと移った。体育館は避難所としての役割を終えた。

 3カ月に及んだ避難者対応について、発電所員、地域総合事務所員に「助けてあげた」という感覚は全くない。むしろ、住民の言葉に励まされた記憶の方が強く刻まれている。

 避難者の中には、目の前で家族を失った人がいる。掛ける言葉が見当たらず、涙する目黒に、その人は「私たちは前を向くしかない。だから皆さんも前を向いて」と笑った。

 土田は「立派なことをしたわけではない。人としてやるべきことを、組織としてやっただけ」と言う。菊田も「地域の方々が発電所に避難したことは、先輩たちが地域との信頼関係を築いた結果。発電所に助けを求めれば、“何とかしてくれる”と信じて頂いたということだ」と振り返った。

電気新聞2020年3月10日

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