最大364人が避難生活を送った女川原子力発電所の体育館。間仕切り用に卓球に使う青いパネルなどが提供された
最大364人が避難生活を送った女川原子力発電所の体育館。間仕切り用に卓球に使う青いパネルなどが提供された

 東北電力女川原子力PRセンター(宮城県女川町)は、三陸リアス式海岸の美しい景観を見下ろす高台にある。2011年3月11日午後。館長の添川信夫(現・東北エネルギー懇談会広報部長)は、見学に訪れた学生17人を女川原子力発電所の見学に送り出した後、館内に残り、事務仕事をしていた。

PICKH20200309_A1001000100100003 学生たちが2号機の放射線管理区域内で見学しているか、あるいは終わろうとしていた時間帯だった。
 
 ◇PR館に見学者
 
 午後2時46分。今までに体験したことのない揺れに襲われた。部屋にある書棚からは書類が散乱。館内の天井が崩落したほか、展示物も一部破損した。

 2号機内にいるかもしれない学生たちは大丈夫か――。

 真っ先に迫られたのが、安否確認だった。地震発生から15分ほどたった時、発電所内に学生をアテンドしたスタッフから「管理区域を出て、(発電所の)事務棟に戻った」と連絡が入り、まずは胸をなで下ろした。

 発電所事務棟2階の総務課では、副長の目黒桂一(現・ビジネスサポート本部総務部総務課長)が両手で机を押さえながら、揺れが収まるのを待っていた。自席近くの窓越しには1号機の建屋が見える。

 無事に停止しただろうか――。

 しばらくして揺れが止まると、同じフロアにある所長室から出てきた渡部孝男(現・顧問)が、運転中の1号機と3号機が停止したことを告げた。渡部に続くように、目黒ら総務課の管理職は3階にある緊急時対策室への階段を上がった。そこで地元消防との連絡など、緊急時対応に忙殺されることになる。

 一方、日暮れを前にしたPRセンターの添川は、スタッフから「来訪者」の存在を伝えられた。訪れたのは発電所に近い鮫浦地区の区長ら3人だった。「鮫浦が全滅だ。集落にはまだ人がいる。避難させてほしい」という申し出だった。「いらしてください」と応じ、館内の会議室に迎え入れた。

 避難してきたのは鮫浦地区の住民だけではなかった。付近で公共工事に携わっていた作業員、地元紙の記者もいた。続々と増え、避難者は50人近くにまで膨れあがった。

 PRセンターは停電している。電気がない中で、50人規模の避難者が一晩過ごすことができるのか。添川は状況を随時、発電所側に報告していた。発電所内なら非常用電源が起動しているはずで、電気がある。避難者を発電所へ移せないかと打診した。

 女川町や石巻市の海岸沿いの集落は、津波によって壊滅状態に。東北電力を頼ったのは鮫浦地区の住民だけではなかった。塚浜地区、飯子浜地区などから逃げてきた住民が「年配の人、妊娠している人だけでも助けてもらえないか」と、発電所ゲート前にやって来ていた。

 緊急時対策室でも避難者への対応を協議。所長の渡部から「(発電所に)受け入れられるか」と問われた目黒は「ただうなずいた」と記憶している。直属の上司も「やるしかないんじゃないか」と表情で語っていた。

 「所長の頭に“受け入れない”という選択肢はなかったと思う」(目黒)
 
 ◇私服持ち寄り提供
 
 11日。発電所で受け入れた避難者はPRセンターの約50人、見学に訪れていた学生17人、塚浜地区などの住民ら100人規模に達した。所内には、約500人の発電所員が3日間しのげる約4500食の非常食がストックされている。その一部を避難者に提供した。

 非常食は発熱材で温められるものだ。温め方が分からない避難者もいたため、社員が手伝った。社員はその日、食事を取らずにプラント安定化、避難者対応に当たった。

 PRセンターからバスで移動してきた避難者をゲート前で迎え入れた目黒は、その時の“重い空気”を今も忘れられない。バスから降りてくる人々は無言で、「形容しがたい表情をしていた」。何か声を掛けなければと思うものの、掛けるべき言葉が出てこない。

 PRセンターで対応に当たった添川も「最初の頃、住民の方と言葉を交わした記憶がほとんどない。こちらから声を掛けられないような雰囲気だった」と振り返る。

 発電所に避難先を求める人は、日を追うごとに増えていった。当初は事務別館内のゲストホールを開放したが、収容しきれない人数にまで膨らんだ。寒さが心配だったが、体育館なら十分な広さを確保できるのではないか。

 総務課の呼び掛けに応じ、各課が私服を集約。少しでも暖を取る足しにしてもらうため、防寒着や毛布、段ボールも提供した。所内のレジャー用に、卓球用具があった。ゲームの仕切りに使う青いパネルを、避難所の間仕切り用に使ってもらった。

 こうして13日、女川原子力発電所体育館が最大364人の地域住民を収容する一時避難所となり、6月6日までの約3カ月間、発電所員と寝食を共にする場になった。(敬称略)
 

 
 東北電力女川原子力発電所は1、3号機が通常運転中、2号機が原子炉起動中に東日本大震災が発生。震源から最も近かったが、3基とも設計通り自動停止し、冷温停止へと導くことに成功した。プラントの安定化に向けた緊迫の対応が迫られる中、発電所では避難者受け入れという別の緊急事態にも直面していた。さらに、発電所の外では「水」を巡るグループ企業の奮闘があった。あの震災から9年。それぞれの使命を果たした闘いの様子を、複数の証言を元につづる。

電気新聞2020年3月9日

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