5.広告塔とネオンサイン

各地に印象的なネオンサインを掲げる広告塔があった。ここでは代表的なものとして、大阪を代表する光景となった「道頓堀グリコサイン」、日立グループの広告を掲出してきた大阪の「通天閣」、そして戦前から戦後まで各地に建設された「仁丹塔」を紹介したい。
大阪の道頓堀は、戦前から現在にいたるまで、ネオンサインや電飾を用いた巨大な広告で夜景をかたちづくってきた国内では稀有な歓楽街である。全面に電気広告を掲げたアドビルや、戎橋の橋詰にあって大阪を代表する名所となったグリコサインなどが地域を象徴する存在であった。
「道頓堀グリコサイン」の先駆となったのが福助足袋の広告塔である。福助足袋は、博多中洲(大正12年)を先駆として、昭和3年には東京浅草と大阪道頓堀に電飾を施した巨大な広告塔を建立する。道頓堀の事例では「福助足袋」の文字を塔身の各面に電球で灯し、塔頂部に裃を着てお辞儀をする福助人形を掲げる様子を見せた。道頓堀に面して下方にスイス製の大時計を装置し、左右に「萬歳足袋」「家庭足袋」の商品名、文字盤の上方にも小さ目の福助人形を配置した。
この広告塔を担ったのが、コピーライターであり川柳作家としても知られる岸本水府である。水府は福助足袋ののち、寿屋、グリコ、桃谷順天館など、大阪を拠点とする企業の宣伝部長や支配人を歴任する。彼が福助足袋からグリコへと転籍するのに応じて、福助足袋の広告塔の跡に江崎グリコがサイン広告を掲出することになった。ちなみに「一粒300メートル」というグリコの販促コピーも水府が手がけたものとされている。
初代のネオンサインは昭和10年に設置された。総高33メートル、ランナーの姿やロゴサインが6色に変化、花模様が1分間に19回のテンポで点滅する仕掛けであった。しかし戦時下の昭和18年、解体のうえ鉄材として供出されてしまう。
戦後、昭和30年に2代目が掲出される。高さ22メートル、砲弾型の枠内にマークを納め、「一粒300メートル」のキャッチコピーも添えられた。2代目は広告の足元部分、道頓堀に面して舞台を設置して、人形劇やロカビリー大会などの余興を提供した。昭和38年、噴水を装備した3代目に改められる。トレードマークの中心部にある150本のノズルから水車状に回転するように水流を放出、12色400基のライトで美しく照らしだした。昭和47年には陸上競技場を走るランナーを描写する4代目が登場する。この構成が、今日の6代目にまで継承されることになる。日本を代表するサイン広告である「道頓堀グリコサイン」を「電化遺産」に選抜することに意義はないだろう。
次に展望塔と広告塔を兼ねた「電化遺産」として、昭和31年10月28日に開業した2代目となる通天閣をあげておきたい。初代通天閣は、大阪南部を代表する歓楽街である新世界の中心に建設された。「ライオン歯磨き」の巨大な電飾広告を掲げて界隈のシンボルとなったが、昭和18年に火災で焼け崩れた。その後、戦後高度経済成長のなかで、地元の商店主たちが出資して2代目が建設される。高さ10メートルm、鉄塔には閃光電球2万個が装備された。
通天閣には、いくつもの「日本初」「日本一」が意図的に設けられた。地上から入場券売り場のあるフロアまで上がるエレベーターは、日本最初の円形エレベーターである。東側に掲げられた時計も日本一の大きさであった。塔頂に円筒形のネオンサインを置き、翌日の天気を白(晴天)、黄(曇)、青(雨)の3色で示した。
昭和32年7月22日に側面に巨大なネオン広告が掲出された。広告代理店の斡旋で、権利金なし、年間300万円、10年分前払いという条件で日立製作所と契約した。1文字6メートル四方、ネオンの下から上までの高さ40メートルという巨大なものである。当初は「日立モートル」「日立ランプ」「日立ポンプ」「日立テレビ」など、のちに「日立ルームエアコン」「日立コンピュータ」「白くまくん」、さらには「エレクトロニクスの日立」「日立OAシステム」「日立キドカラー」「日立パソコン」「日立ITソリューション」といった文字が点灯された。近年、LEDの電飾に変更された際には「安心と信頼の日立グループ」の文字が採用された。
ネオンサインの点灯許可に際して「一面は、公共的に利用する事」という条項があったため、日立は西面を公共的な用途に使用することとした。最初の10年は巨大な寒暖計を表示したが、昭和42年には「日本万国博」の文字と直径4メートルのシンボルマークを掲示した。博覧会後には「みんなの願い交通安全」「交通安全大阪21世紀計画」などに変更、LED照明に変更された段階では「笑顔の生まれる街・大阪」の文字を夜空に浮かべた。
電気照明を伴った広告塔では、浅草の名物であった「仁丹塔」も印象的だ。明治38年に仁丹を商品として販売した森下博薬房(現:森下仁丹)は、新聞広告のほか薬店に突き出し看板を設置、また京都市内の町名表示板などに広告を掲出するなど斬新な広告戦略を全国で展開した。薬局や祭礼地では「仁丹遊園(仁丹パーク)」と称するタワーを模した自動販売機を設置した。代金を投入すると取出口から仁丹や浅草観音のおみくじを得ることができ、同時に覗き穴から美人画などの立体映像を観ることができた。また森下博薬房は繁華な街に「仁丹」のロゴを掲げる広告看板や電飾広告を設置した。
明治40年に大阪駅前に巨大な広告看板を設け、その後、浅草では千束館の屋上に巨大な広告看板を設けた。また東京の神田や上野などにも巨大な広告塔を建設している。昭和7年、浅草の国際通りと雷門通りの交差点に近いビルの屋上に「仁丹塔」が建立される。上半分は商標である「大礼服マーク」、下半分には「赤小粒」「石鹸」「体温計」など商品名を表示した。近傍のランドマークとなっていたが、太平洋戦争のさなかに解体された。
名物が復活したのは昭和29年のことだ。高さは約45メートル、かつて界隈のランドマークであった「凌雲閣(浅草十二階)」を模した姿で、側面に「東京名物浅草十二階仁丹広告塔」と記載した。ビルの側面に掲げられた「仁丹」の広告とあいまって明治時代へのノスタルジーをかき立てる浅草らしいランドマークであった。





