3.ラジオ塔とテレビ塔

 電波塔のなかでは、ラジオやテレビなど放送に関わる塔も重要である。
 大正14年3月22日に芝浦の東京放送局から、「アーアー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」とアナウンサーと第一声を語りかけた。日本初となるラジオの仮放送である。その後、放送局は愛宕山の新たな局舎に移転する。市中に電波を送るべく高台に高さ45メートルほどの鉄塔2基を建設、そのあいだに空中線を渡して送信用のアンテナとした。
 その後、全国各地にラジオ放送を目的とした送信用鉄塔が建設される。なかでも関東地方一円に電波を届けるべく、昭和12年に埼玉県川口市に建設された「NHK川口第一ラジオ放送所」の南塔と北塔は、312.78メートルという高さを誇った。東京タワーの建設まで日本一の高さを誇る鉄塔であったが、昭和59年に解体されている。
 戦後、テレビ放送を主とする電波塔が建設される。以下では、東京における事例を見ていきたい。NHKが日本初のテレビ公開実験を実施したのは、昭和14年5月にさかのぼる。戦争による中断を経て昭和23年に公開実験を実施、昭和28年2月1日に千代田区紀尾井町に電波塔を設けて本放送を開始する。
 半年ほど遅れて同年8月28日、日本テレビ放送網は麹町に高さ154メートルのテレビ塔を設けて、民放第1号となるテレビ放送を開始する。超高層ビルのない時代であり、標高30メートルほどの高台にあったことから、都内の各所に電波を送り届けるうえでは十分な高さを確保した。
 電波塔に固有の名称はなかったが、「日本テレビ塔」「日本テレビタワー」などと通称されたようだ。正力松太郎の提案を受けて、高さ55メートルの地点に第一展望台、74メートルの地点に第二展望台を設けて無料解放したこともあり、観光スポットとして人気を集めたという。日本テレビは盛り場や駅、公園などに街頭テレビを設置、プロレスやボクシングなどの試合が放送される際には、テレビの前に群衆が集まり試合に熱狂した。
 ついで昭和30年4月1日からはラジオ東京テレビジョン(KRテレビ、現TBS)の放送も始まる。ラジオ東京テレビジョンは赤坂に高さ174メートルの「赤坂テレビ鉄塔」を建設した。
 各局が独自の電波塔を建設した結果、千代田区南西部から港区北東部にかけて、NHK、NTV、KRTの鉄塔が高さを競いあうかたちになった。もっとも各局の電波は半径70キロメートル程度にしか届かず、またアンテナの指向性もあって、銚子や水戸では満足に電波を受信することができなかった。
 今後、さらに放送局が増加した場合、電波塔が乱立することが想定された。そこで郵政省電波管理局などを中心に集約電波塔を建設する機運が高まる。民間からの提案なども検討、結果として前田久吉が主導するかたちで新たな電波塔の建設が具体化する。前田は産経新聞社、大阪放送(ラジオ大阪)の社長を務めており、当時、「大阪の新聞王」と呼ばれた人物である。
 昭和32年5月8日、前田が中心となり、集約電波塔を建設する主体となる「日本電波塔株式会社(英語名:NIPPON TELEVISION CITY CORPORATION)」が設立される。この時、前田は集約電波塔の経営を行ううえで、特定のメディアグループに属することが問題あるという判断があったのだろう、産経新聞社の経営から離れることになる。
 東京における集約電波塔の建設にあたっては、十分な敷地と強固な地盤を持つ土地が条件となり、また観光客向けの展望台を設ける場合を踏まえて、工場などの煤煙もなく、なおかつ良好な眺望が確保できる場所が求められた。当初は上野公園付近も候補となったが、地盤の良さと国の中枢機関に近いことなどから、江戸時代からの由緒ある遊山地である芝公園内の紅葉山が選定された。
 前田は、当時312メートルであったパリのエッフェル塔を越えて「世界一」の自立鉄塔となることを目指した。耐震構造の先駆者であり、愛宕山の電波塔や名古屋テレビ塔などの経験を持ち、「塔博士」の異名を持つ建築家の内藤多仲に設計を依頼した。関東地方全域に電波を届ける必要から、アンテナ部分も含めて全高333メートルの鉄塔とし、高所に展望台を設け塔の下に5階建ての科学館が建設された。航空機から視認されやすいように、側面はオレンジと白色で塗装された。鉄骨の総工費約30億円を費やし、昭和33年12月23日に完工式が挙行されている。
 事前に名称の公募が行われ、8万6269通もの応募が寄せられた。もっとも多かった案は年号に由来する「昭和塔」(1832通)、続いて「日本塔」「平和塔」の順であった。なかには米ソの宇宙開発競争を背景とした「宇宙塔」、皇太子殿下の成婚が近いということで「プリンス塔」という応募もあったという。しかし審査委員であった徳川夢声が推挙した、223通で13位であった「東京タワー」に決定した。

4.各都市の電波塔

 東京以外の都市でも、テレビの普及に応じて、新たなテレビ塔が建設される。
 代表的なものが、昭和29年6月19日に完成した日本初の集約電波塔「名古屋テレビ塔」だろう。焦土と化した都心の復興を目的に、愛知県や名古屋市、名鉄などが出資、当初から観光振興のための展望塔と電波塔の集約を併せ持つ事業として具体化した。
 場所は都市計画決定された幅員100メートルの目抜き道路の中央緑地帯になる。総高180メートルとなる集約電波塔の設計は、内藤多仲に依頼された。地下鉄が真下を通ることが想定されていたことから、当初から深く基礎を打ちこまずに、地上レベルでアーチを設けて鉄塔を支える独特の「だるま式」構造が採用された。
 「名古屋テレビ塔」は、アナログテレビ放送の終了後、存廃が議論されるがホテルなどが入居する複合的な観光施設として再生、マルチメディア放送のアンテナも据えられた。近年、国の重要文化財に指定されている。令和3年5月からは中部電力がネーミングライツを持ち、「中部電力MIRAI TOWER」と称している。
 「さっぽろテレビ塔」も、昭和を代表する電波塔だろう。総工費1億7000万円、高さは144メートル、名古屋テレビ塔と同様に内藤多仲が設計を請け負った。昭和32年に完成、8月24日に開業している。当初はNHKや札幌テレビ放送が使用、電波塔としての役割を担ったが、昭和44年までにテレビ送信所は手稲山に集約されたことから、FM局の中継局とNHKの予備送信所となる。
 大阪では生駒山上に各局の放送施設があることから、都心に集約電波塔を建設することはなかった。逆に各局は生駒に中継電波を送信する施設を持つ必要があった。そのなかでユニークな事例が、朝日放送が昭和41年に新社屋の建設にあわせて建設した高さ158メートルのタワーである。総工費は約4億円、地上102メートルのところに2層の展望台を設置した。名称は公募のうえ、応募総数約3万通のなかから「大阪タワー」と命名された。
 タワーにはラジオとテレビの送信機械のほか、中継アンテナやタクシーの無線用アンテナ、大阪府の大気汚染濃度測定器なども設置された。側面3面には日産自動車のサイン広告を掲げ、完成当時は日本最大のネオンサインとされた。
 昭和54年、展望台に「スカイスタジオ」が設置され、情報テレビ番組が生放送されるようになった。また特撮テレビドラマ『ウルトラマン』の「怪獣殿下 前篇・後篇」にあって、怪獣に備える対策本部が設置されたという設定で展望台でのロケが行われ、話題になった。本社の移転にともなって塔は役割を終え、平成21年に解体された。
 ハーフミラーの外観優れたデザインを持つ電波塔として、福岡タワーも例示することができるだろう。アンテナを含む全高234メートル、アジア太平洋博覧会の展望台として、また福岡市政100周年のシンボルとして建立された。ただ平成元年の竣工なので、今回の選定からは外したいと思う。