津波により倒壊した電柱。被害のすさまじさを物語る(11年3月13日、気仙沼市)
津波により倒壊した電柱。被害のすさまじさを物語る(11年3月13日、気仙沼市)

 

◆沈んだ空気、再建で変化

 
 宮城県気仙沼市鹿折(ししおり)地区を襲った巨大津波は漁船を陸地に押し上げ、一面を焼き尽くした。

 2011年4月頃、配電設備復旧作業のため、この地に立った東北電力気仙沼営業所配電課配電技術長の鎌田俊(現在は古川営業所配電技術サービス配電技術長)の目には、茶色と黒の2色の世界に映った。「街全体が焼け野原のようで絶望的だった。本当に復旧できるのか」と感じたことを覚えている。電柱を建てるためにがれきを撤去すると、遺体があった。頭の中から消し去れない光景だ。
 
 ◇戻っていいか
 
 11年3月11日午後。夜勤明けで宮城県七ヶ浜町の自宅へ帰る途中、大きな揺れに見舞われた。避難した高台から見えた光景は無情だった。自宅が津波に流されていくさまを、ぼうぜんと見守るしかなかった。

 発生からしばらくは最寄りの塩釜営業所に出勤。宮城県多賀城市の親戚の家と社宅で当面を暮らした。ガソリンが確保できず、気仙沼にはなかなか戻れなかった。だが、現場を指揮する配電技術長。戻れるなら戻りたい。その一方で、家族を多賀城に残して戻るのにも心が揺れた。

 気仙沼に戻る環境が整ったある日、中学3年生の長男に尋ねた。「(気仙沼に)戻っていいか」

 教官役として、若手を指導する立場にいたことがある。泥だらけの作業服を着込んだままの若手を自宅に招いたりしていた。そんな父の姿を子どもたちは見て育った。尋ねられた長男は父の背を押した。「こういう時のために訓練していたんだろう。(被災地で)みんな待っているはずだ」。目頭が熱くならないわけがなかった。
 
 ◇怒りを抱いて
 
 凄惨(せいさん)な気仙沼での復旧作業。冷静ではいられなかった。自宅は流され、家族は多賀城に残してきた。この先、どんな生活になっていくのか。「誰にもぶつけることができない怒りの感情。ちくしょうという思い」を抱きながら作業に臨む心持ちは、同僚や部下たちと比べて異質だったかもしれない。

 しかし、焼け野原に電柱が建てられ、配電線が張り巡らされていく光景に、心境の変化が出始める。「怒り」が「震える」景色に見えてきたことだ。「他のライフライン事業者は被災設備の“撤去”しかできていない。しかし、電力は“建設”している」。がれきと泥だけの2色の空間に電柱と配電網が構築されていく様子に、身震いするような感覚を抱いた。
 
 ◇精神面も消耗
 
 塩釜営業所配電計画課の佐藤智子(現在は仙台営業所地中配電課建設グループ)は、営業所内の給電指令室で研修を受けている最中、地震に見舞われた。机の下に身を隠しながら、机上のパソコンが倒れないよう支えるのに必死だった。機器が壊れれば、その後の復旧作業に支障が出かねないと思ったためだ。

 身を守りながら系統盤を見ると、停電が広がっていく様子が見て取れた。

 佐藤の立場は、現場確認に出向いた社員の情報を基に被害状況を把握すること。ただ、被害があまりにも広範囲におよび、「誰がどこにいるのか分からない」状態だった。無線で情報が入るようになったが、設備被害の状況確認の前に、「どこが(作業をする上での)危険エリアか」を特定することに重点を置いた。現場に向かった社員から寄せられる「ここから先には行けない」といった情報を、地図に落とし込んでいった。

 復旧対応は長期化した。佐藤は石巻営業所勤務時代、地震による設備被害対応を経験している。体力的に厳しくなるのは想像の範囲内だったが、過去の震災対応と違っていたのは精神面のきつさ。現場から帰ってくる社員の様子は2つに分かれた。「元気がなくなっている人もいれば、アドレナリンが出て元気になる人もいた」。精神の平静を保つ難しさを、この震災で初めて感じた。

 発生から1週間ほどたつと、社員、協力会社社員の口数も少なくなっていた。「やってもやっても終わらない苦しさ」は士気にも影響。軽口をたたいて場を和ませられる空気ではなかった。自分自身も「私の仕事が早期復旧に役立っていると考えなければ、気持ちを保つのが難しかった」。

 やがて他支店・営業所、他電力からの応援部隊が到着。“外の空気”が入り込むと、雰囲気に変化が生じた。小型バケット車(高所作業車)を「コバケ」と略して呼ぶ応援部隊があったり、耳慣れない方言が飛び交ったりした。それが営業所員の間で話題になり、会話も増えていった。佐藤も応援部隊に積極的に雑談を仕掛けた。

 なかなかゴールが見えない状態が長引くと、どうしても空気が重くなる。だからこそ「仕切り直し」の重要さを感じる。

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