8月24日に開催された東京パラリンピック開会式に東京電力パワーグリッド(PG)の大峠志帆さんが参加した。大峠さんはエッセンシャルワーカーの一人として大会旗を運ぶ大役を務めた。

 開会式後に聖火が夢の大橋(東京都江東区)に移されるセレモニーでは、東京電力ホールディングス(HD)に勤務するパラアスリート、多川知希さんが参加。最終点火者として、パラリンピックの聖火をともした。

「あこがれの仕事」に誇り/東京電力パワーグリッド 大峠志帆さん

大峠志帆さん

 6月に城宝直人・上野支社長から打診を受けた東京電力パワーグリッド(PG)上野支社地中送電保守グループの大峠志帆さんは、「正直驚き、実感が湧かなかった。うれしさと不安とが半々だった」と振り返る。本番まで2カ月と日にちもあったため、次第に気持ちも落ち着き、「引き受けるからには役割を果たすしかない」と覚悟を決めた。

 リハーサルは開会式の2~3日前に2回行われた。演出内容は直前まで一切知らされていなかったが、東京五輪開会式で東電PG大塚支社大塚制御所配電保守グループの南條優希さんが五輪旗を運ぶ姿を見ていたため、「イメージは湧いていた」。だが、リハーサルで実際に会場に立ってみると「歩くだけだが、思ったよりも緊張した」という。

 当日は他の7人のエッセンシャルワーカーと共に、パラリンピアンが拍手している間を通ってパラリンピック旗を運んだ。進行方向左側の先頭で大役を果たした大峠さん。「暖かい雰囲気の中、楽しみながら終えることができた。リハーサルの方が、むしろ緊張した」と笑顔で話す。

 開会式への参加は他言無用。それでも開会式後には岩手県の実家や同僚、友人から引っ切りなしに連絡があった。特に祖母は大喜びで、近所中に「孫娘が開会式に出た!」と触れ回っており、近所ではちょっとした有名人状態だという。

 大峠さんは入社して江東支社に配属されるが、その後の支社統合で上野支社勤務となる。日頃の業務ではトラブル発生時の一次対応を担当する。企画総括グループを兼務しており、支社のイベント対応や支社の企画・運営の取りまとめなども行う。東京五輪・パラリンピック期間中は、江東支部室(東京都江東区)に交代で待機して有事にも備える。

 上野支社は競技会場が集中するエリア。そのため、大峠さんは入社直後から東京五輪に向けた管理職や同僚の気概を目の当たりにしてきた。新型コロナウイルスの影響で1年延期が決まり、モチベーションが下がってしまう場面に出くわすこともあったが、皆が準備万端にできる期間が1年増えたと前向きに捉え、本番に向けて士気を高めていった。

 開会式の会場では、ヘアメークやスタッフなどから感謝の言葉を掛けられ、「会場にいることをあらためて誇りに思った」。自身も「『東京電力は社会の基盤を支えている』とのあこがれを抱いて入社した時のことを思い出した」と初心に帰る。

 入社5年目。仕事にも慣れてきた。「何かを見失いそうになった時は、開会式のことを思い出して仕事に臨みたい」と目を輝かせる大峠さん。きょうも電力の安定供給を陰で支える。(倉持 慶一)

選手としての次を見据え/東京電力ホールディングス 多川知希さん

多川知希さん

 東京電力ホールディングス(HD)で東京オリンピック・パラリンピックプロジェクト統括室主任として働く多川知希さんはパラアスリート。100メートルと200メートルを主体とする陸上短距離選手で、これまでに過去3回のパラリンピックに連続出場した。リオ大会では4×100メートルリレーで見事銅メダルに輝いている。東京大会への出場も目指していたが、惜しくも逃した。選手としての参加は果たせなかったものの、今回は聖火をともす立場としての参加となった。

 最終点火者に選ばれたのは6月頃。当初は「選手としての参加ではないことに複雑な思いだった」と振り返る。だが点火の際には気持ちも切り替わり、「一生のうちでも、こんなことは経験できない。貴重な機会をもらえて光栄だと感じた」と話す。

 多川さんは35歳。ベテランの域には入ったが「引退は考えていない。パラ陸上に関わるのは楽しいし、やめるのはもったいない」と向上心は旺盛だ。「今後は中盤以降に加速できるようにしたい。地面を押して進めるように改善していく」と前を見据える。

 まずは2022年9月に神戸で開かれる世界選手権が目標。視線の先にはもちろん、3年後にパリで開かれる次のパラリンピックがある。

 多川さんは東京大会後のパラスポーツの動向も気に掛けている。これまでは東京大会を控えていたからこそ、機運の高まりがあったのは事実。これからは新型コロナウイルス感染拡大などでスポーツそのものへ逆風が強まることも予想される。

 パラスポーツを盛り上げるヒーローの登場を望むが、自身も「僕にしかできないことがある」。アスリートとしてさらなる研さんを積みながら、メダリストとしての経験を語り継いでいく考えだ。(濱 健一郎)