

1.電波塔と送電塔
塔に代表される高層建築は、その巨大さゆえに、都市や地域を代表するランドマークとなる。
今回は電化に関する塔状の構築物から、昭和の電化遺産を選びたい。まず対象とするのは、放送や通信に用いられる電波塔と送電塔である。そのほかにも電気広告を装置してイルミネーションで飾られる展望塔、野球場などの照明塔、火力発電所の煙突、高速のエレベーターを装備した超高層ビルなど、電化に関わるタワーはさまざまにあるが、今回は選定の対象とはせず別の回に、電化遺産に値するのかどうかを検証することとしたい。
電波塔は文字通り、送信所にあって電波を送信する機能を託された塔である。遠くに電波を届ける必要性から、アンテナを高く支持するために構築される。複数の事業者が共同で設置する場合は集約電波塔という。
電波塔はその構造から、塔を支柱や支線で支える構造に由来する「mast(マスト)」と、自立した塔である「tower(タワー)」が使い分けられる。より高い建物を欲する人々の想いを受けつつ、機能として最新の放送技術である機械を高く掲げる必要があるため、常に当代の最高の建築技術が応用される。結果として電波塔は、「テクノロジーの象徴」とでも呼ぶべき存在として、私たちの生活のなかで街の風景を構成する重要な役割を担う。
一方の送電塔は、架空電線路を支持する構造物を総称する。鋼鉄を用いたトラス構造の送電鉄塔のほか、木造やコンクリート造のものもある。送電塔の基本的な姿形は電圧や回線によって様々であり、帽子型塔、門型塔、ドナウ型塔など、国や地域ごとに特徴的なデザインが採用されることがある。
2.通信技術の発展と無線塔
ここではまず電波塔の歴史を見ていきたい。大正時代から昭和初期、通信に関わる技術が著しく発達するなかで、まず発達したのが遠隔地との通信を可能にする無線塔である。その発展の足跡を振り返ると、初期にあっては海軍や逓信省の通信施設に際だった先例がある。
大日本帝国海軍が、海軍無線電信所船橋送信所(現・船橋市行田)を開設したのは大正4年(1915年)もことだ。高さ約200メートルの主塔を中心に高さ60メートル級の副塔18本を建設、36本の電線を傘のように繋いでアンテナとした。当時としては世界有数の性能を誇り、ハワイの無線局とを結んで日米間の通信が行われた。
大正12年に発災した関東大震災の際には、都心の通信施設が壊滅するなかで、横浜港に停泊していた船舶からの情報をもとに、船橋送信所を経由して、国内、さらには海外にまで救援を求めるメッセージが送られたという。また日米戦争の開戦の契機となった真珠湾攻撃の実行を告げる「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号も、船橋送信所から発信された。
戦時下の昭和16年(1941年)頃に当初の施設から、高さ182メートル、6基の自立鉄塔による電波塔に更新された。空中にそびえる鉄塔群は「行田の無線塔」の名とともに周辺のランドマークとなる。戦後は占領軍が送信所を接収、昭和41年まで米軍が使用した。日本に返還されたのち昭和46年に解体、跡地に整備された行田公園に送信所と無線塔を回顧する記念碑が残る。
日本帝国海軍が設置した無線施設では、長崎県佐世保市にある針尾送信所の無線塔も重要である。大正11年に完成した3本のコンクリート製の塔は、塔基の直径が12.12メートルもある。1号および2号塔は高さ135メートル、3号塔は137メートル、各辺が約300メートルの正三角形を描くように配置された。針尾送信所は現存しており、その歴史的価値が評価されている。
一方、逓信省が手がけた無線塔では、磐城無線電信局原町送信所(現:福島県南相馬市)に建設された「原町無線塔」が有名である。大正10年7月に竣工した主塔は直径17.7メートル、突端直径1.18メートル、高さ約201メートル、当時、アジアで最も高い建築物であった。当初は鉄塔とする予定であったが、鋼材の価格高騰を受けて鉄筋コンクリート造に変更された。主塔の周囲に高さ60メートルの木製副塔を建設し、空中線を張り渡してアンテナとした。
昭和6年、原町送信所の廃局に伴い、「原町無線塔」の利用は停止された。無線塔としての機能は失ったが、主塔そのものは現地に維持され、地域のランドマークとなっていた。昭和57年に老朽化から解体、その後、塔の記憶を継承するため、10分の1の縮尺となる高さ20メートルの「憶・原町無線塔」が建設された。

以上、3例は、日本における無線塔を語るうえで重要なものだが、大正時代の事例なので今回の選定にはあたらない。
年号が昭和になって建設された無線塔のなかで、特筆するべきものとして依佐美送信所の無線塔である。民間資本による対欧無線電信所を設けるとする政府方針を受けて、大正14年10月20日、日本無線電信会社が設立された。同社は無線電信所の建設候補地を選定、最終的に愛知県依佐美村(現:刈谷市)に絞り、高さ250メートルの鉄塔8本で構成される無線塔を建設する。
依佐美送信所の無線塔は、日本無線電信の技師であった楠仙之助が設計を担った。石川島造船所(現IHI)で製造された鉄骨を使用、大倉土木(現大成建設)が施工を請け負った。工事にあたっては、建設資材運搬のために三河鉄道(現名古屋鉄道三河線)の小垣江駅から現地まで、全長約2.4キロメートルの臨時の専用軌道が敷設されたという。
昭和4年4月、送信所の運用が始まる。天空にそびえる電波塔は、先に紹介した「原町無線塔」を抜いて、この時点においてアジアでもっとも高いタワーとなった。
依佐美送信所ではポーランドのワルシャワとの双方通信を行い、さらにベルリン、ロンドン、パリなどとの交信を行った。また長波を用いて海軍の潜水艦との交信にも利用された。戦後は米軍に接収され、運用が継続された。平成6年に米軍から日本に返還されたのち、すべての鉄塔と局舎は解体された。その後、跡地の一部を公園として整備する際に送信設備と鉄塔の一部を残置、ここに通信施設と無線塔があったことを将来に伝えるモニュメントとなっている。