9.路面電車の「動く博物館」


各地で活躍した車両を継承し「路面電車の博物館」とも呼ばれる広島電鉄と土佐電気鉄道(現とさでん交通)。写真は昭和30年代に製造され、かつて山口県下関市を走っていた800形(高知市はりまや町)
各地で活躍した車両を継承し「路面電車の博物館」とも呼ばれる広島電鉄と土佐電気鉄道(現とさでん交通)。写真は昭和30年代に製造され、かつて山口県下関市を走っていた800形(高知市はりまや町)

 各地の路面電車のから電化遺産を選定するなかで、内外の多種多様な車両を運行し、「路面電車の博物館」と呼ばれている広島電鉄と土佐電鉄(現:とさでん交通)を挙げておきたい。

 広島電鉄、通称「広電」は、広島電気軌道の名で明治43(1910)年に設立され、2年後の大正元(1912)年11月23日に広島駅~相生橋~己斐間で営業を開始した。その後、市内線や、宮島方面へ向かう鉄道線の宮島線を開業する。昭和20(1945)年8月6日の原爆投下により街は壊滅的な被害を受けたが、被爆からわずか3日後の8月9日に被害の少なかった一部区間(己斐~西天満間)で運行を再開した。被爆に耐えた650形電車は復旧の原動力となり、現在も「被爆電車」として運行、平和へのメッセージを伝えている。

 高度経済成長期、モータリゼーションの進展により全国各地で市電が廃止されていくなかで、広電は京都や大阪など各都市を走行していた車両を引き取り、そのままの塗装で運行させた。「動く博物館」として注目を浴びると同時に、路面電車の魅力を再認識させる契機となった。1990年代以降は、超低床車両の導入や電停の改良などLRT(次世代型路面電車)化を積極的に進めた。また2025(令和7)年8月にはJR広島駅の2階に新たな路面電車ターミナルを設けて運用を開始している。

 土佐電気鉄道が運営していた高知県下の路面電車の路線は、2014(平成26)年に、とさでん交通に継承されたが、地元では今でも親しみを込めて「土電(とでん)」と呼ばれている。高知市内を中心に、後免線(東)、伊野線(西)、桟橋線(南)、駅前線(北)の3路線が、はりまや橋で十字に交わるかたちで運行している。

 とさでん交通では、最新型の超低床電車ハートラムから、ノルウェーのオスロ市電など海外から譲り受けた車両までを使用、様々なタイプの車両が走っていることから、広島電鉄と同様に「路面電車の博物館」と呼ばれることがある。

10.自動改札/動く歩道/ホームドア


立石電機(現オムロン)が近畿日本鉄道や京阪神急行電鉄(現阪急電鉄)と挑んだ自動改札機の開発は、戦後の代表的な電化事例となった。写真は1967(昭和42)年、千里線の北千里駅に設置された自動改札機
立石電機(現オムロン)が近畿日本鉄道や京阪神急行電鉄(現阪急電鉄)と挑んだ自動改札機の開発は、戦後の代表的な電化事例となった。写真は1967(昭和42)年、千里線の北千里駅に設置された自動改札機

 鉄道の電化と連携して、駅施設から電化遺産を2点、選んでおきたい。

 一つ目が、昭和39(1964)年に近畿日本鉄道(近鉄)が大阪上本町駅に設置した日本初の自動改札機である。定期券専用で一般の乗車券には対応していなかったが、画期的な先例となった。最初期の仕組みは、定期券の裏に特殊なインクで磁気情報を印字し、それを読み取る仕組みであった。

 その後、1970年代に入ると、磁気エンコード技術が発展し、乗車券の自動改札機が実用化される。昭和48(1973)年に阪急電鉄が、阪急梅田駅(現:大阪梅田駅)に日本初となる乗車券と定期券に対応した本格的な自動改札機を導入した。

 いっぽう駅施設として画期的な試みが、昭和42(1967)年に阪急梅田駅に導入された「動く歩道」である。JR線の南側から北側にホームを移設するのに応じて、南北の連絡通路に設置された。駅構内の移動距離が長くなった乗客への配慮として導入されたものだが、近未来的な設備として注目を集める。

 もっとも国内におけるムービング・ウオークの最初の事例は、昭和36(1961)年に横浜の氷川丸の見学施設内に設置されたものになる。対して阪急梅田駅の例は公共的な場所に設置され、ひろく一般の利用に提供された先例として歴史に残る。その後、「動く歩道」は、1970年大阪万博において会場内の移動手段として採用、実用性が評価された。

 昭和の電化遺産の選定からは漏れたが、近年、各地の駅で設置が進められているホームドアにも注目しておきたい。国内で最初にホームドアを採用したのは1970年大阪万博の会場内を周回した跨座式の万国博モノレールでああった。運行にあたって自動運転システムが採用されたこともあり、乗降客の安全を確保するべく、7の駅すべてにホームドアが設置された。運転手は乗車しないが、ホームドアの操作を担当する係員を乗せて走行した。

 半年間の会期が終了したのち、万国博モノレールは、横浜の「こどもの国」に移設する予定であったようだが実現には至らない。代替として東京急行電鉄が主体となって、沿線の嶮山早野地区(現:すすき野、虹ヶ丘)の新しい輸送システムとして転用する計画もあったとされるが、これも幻に終わっている。また日本初のホームドアのシステムも再利用されることはなかったようだ。

 常設化したホームドアの先例として、1974(昭和49)年になって国鉄が東海道新幹線熱海駅に設置された可動式ホーム柵がある。熱海駅のホームは、用地がなく待避線を設置できなかったため、列車の通過時に列車風でホーム上の人が煽られて危険であった。そこで国鉄は列車の到着時と発車時のほかはホームに立ちれないように工夫をしたが、それでも危険であることからホームドア方式に変更された。1977(昭和52)年には同様の事情から山陽新幹線の新神戸駅に導入、この2例が常設のホームドアとしては早い事例になる。

11.回生ブレーキを活かした制御技術

 鉄道に関わる電化遺産10選の最後の選択として、回生ブレーキを挙げていきたい。回生ブレーキは、電車が減速する際に、モーターを発電機として利用し、発生した電気を架線に戻して再利用する技術である。

 日本の鉄道における回生ブレーキの歴史は、戦前の電力不足の時代に始まるとされる。1920年代に京王電気軌道(現:京王電鉄)や阪急電鉄が試験的に回生ブレーキを導入した。しかし、直流電車の時代には電圧制御が困難であったことから実用化には至らなかった。

 1930年代に入ると、信貴山急行電鉄(現:近畿日本鉄道)が勾配区間での回生ブレーキを本格的に採用した。急勾配を安全に下るためのブレーキという役割に加えて、電力消費を抑える目的があり、その後の技術開発を促した。
回生ブレーキが本格的に普及したのは戦後のことである。1960年代後半に登場した電機子チョッパ制御は、モーター制御を効率化し、回生ブレーキによる駆動制御の性能を飛躍的に高めた。特に東急電鉄の8000系電車は、この技術を本格的に採用し、日本における省エネ電車の先駆けとなる。1970年代に入り、営団地下鉄(現:東京メトロ)千代田線の6000系車両で電機子チョッパ制御技術を活用しての営業運転が世界で初めて行われ、界磁チョッパ制御が登場すると多くの路線で採用された。その後、VVVF(可変電圧可変周波数)インバータ制御が普及し、回生ブレーキは鉄道車両の標準技術となり、鉄道の安全性、経済性、そして環境性能を大きく向上させた。

 回生ブレーキは世界共通の技術だが、日本ではエネルギー効率を最大限に高めるためのシステム化や、回生失効などの課題を克服する独自の技術開発において、世界をリードしてきたと言われている。

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