6.京阪特急のテレビカー

 関西の私鉄が開発した車両では、京阪電気鉄道の特急列車に設置されていたテレビカーもユニークである。1950年代のテレビ放送黎明期に、京阪がライバルである国鉄(現:JR)や阪急電鉄との競争で優位に立つため、サービス向上を目的として導入された。京阪線はカーブが多く、スピードでは他社に劣るという課題を抱えていたため、乗り心地や車内設備で差別化を図る戦略であったという。

 昭和29(1954)年、京阪1800系に白黒テレビが設置されたのがテレビカーの始まりである。当時は各家庭にテレビが普及しておらず、電車内でテレビが見られることそのものが画期的であった。ついで昭和46(1971)年に登場した京阪3000系では、日本で初めてカラーテレビを搭載し、テレビカーの知名度を不動のものとした。さらに平成元(1989)年に登場した8000系では、従来のブラウン管テレビから液晶テレビへの換装が行われている。

 しかし、携帯電話やスマートフォンの普及により、個人がいつでもどこでも映像コンテンツを楽しめるようになったことを受けて、京阪電鉄は2009(平成21)年から8000系特急列車に備えたテレビを順次、撤去することを決定した。これにより、京阪特急のシンボルとして親しまれたテレビカーは、その歴史に幕を下ろすことになる。

 京阪のテレビカーの一部車両は、地方の鉄道会社に譲渡された。富山地方鉄道では、京阪の初代3000系がダブルデッカーエキスプレスとして再デビューし、今も2階建て車両とともに、テレビカーの面影を残しながら活躍している。テレビカーは、単なる移動手段ではない「旅の楽しさ」を提供しようとした京阪の先進的な取り組みを象徴する存在であり、多くの人々の記憶に残る名車であると言ってよい。

7.眺望を生かした観光列車 ビスタカー/パノラマカー/ロマンスカー

 高度経済成長とともに、観光ブームが起こる。それに応じて、行楽地に多くの観光客を送り届ける新たな特急列車が誕生した。

 近畿日本鉄道は、大阪と名古屋から伊勢志摩を結ぶ路線で国鉄との競争関係にあった。サービスの差別化をはかるべく、昭和33(1958)年に2階建て車両を組み込んだ10000系を特急として運行し、ビスタカーと称した。ビスタカーとは、スペイン語で「眺望」を意味する「Vista」と、英語の「Car」を組み合わせた造語で近鉄の登録商標である。

 革新的なデザインと世界初の2階建て車両は、階上席からの眺望の良さもあって、おおいに人気を博した。その系譜は、昭和34(1959)年に導入された新ビスタカー(10100系)、昭和53(1978)年から運行しているビスタカーIII世(30000系)、ビスタEXなどに継承され、現在も近鉄の広大な特急ネットワークで活躍している。

 昭和36(1961)年、名古屋鉄道(名鉄)は、日本初のパノラマ列車である名鉄7000系の運行を開始する。当時の名鉄は国鉄東海道本線との競争が激化するなか、速度だけでなくサービス面での差別化が求められた。そこで「見る楽しさ」を乗客に提供することを目的に、運転台を客室より一段高い位置に設け、先頭車両から前面展望ができる車両を開発し、愛称をパノラマカーと定めた。

 赤く塗装された車体、大きな側面窓、さらにはミュージックホーンと呼ばれる独特の警笛など、斬新なデザインと先進的な機能を兼ね備え大いに人気を集めた。パノラマカーは観光地への移動手段というだけではなく、その車両に乗ることそのものが旅の目的となる、特別な存在となった。

 名鉄パノラマカーの成功は、他社の鉄道会社にも影響を与えた。昭和38(1963)年、小田急電鉄はパノラマカーと同様に、運転台を階上に設置して前面に展望席を確保した3100形「NSE」の運行を始める。観光地である箱根や江の島にアクセスする特急として使用、小田急ロマンスカーの愛称で人気を集める。

 もっともロマンスカーとは、本来は2人掛けの座席であるロマンスシートを採用した車両の呼称である。京阪電鉄が昭和2(1927)年に導入した京阪1550型、および翌年に採用した1580型において2人掛けの座席を導入、ロマンスカーと名乗ったのが早い例である。

 ビスタカー、パノラマカー、ロマンスカーは、客席からの眺望に配慮することで、眺望を楽しむエンターテイメントへと鉄道の役割を広げたパノラマ列車のパイオニアとして、日本の鉄道史に大きな足跡を残している。

8.モノレールと新交通システム

 モノレールや新交通システムも、昭和期に発展をみた鉄道の一形態である。ここでは東京オリンピックの開催に応じて、羽田と浜松町を連絡して整備された東京モノレールを電化遺産として挙げたい。半世紀を越えて、国際空港と都心を結ぶアクセスとして活躍してきた成果を評価したい。

 日本のモノレールは、戦後、主に大都市圏の空港アクセスやニュータウンの交通手段として発展した。ただその歴史は、博覧会や遊園地で移動手段を兼ねたアトラクションとして運行された大正時代から昭和戦前期に始まる。

 大正2(1913)年、上野公園で開催される大正博覧会へのアクセスとして、上野公園から浅草六区間を結ぶ懸垂式モノレールの建設計画が申請された。ドイツのヴッパータール空中鉄道をモデルにしたもので、新しい都市交通となることが期待された。しかし用地買収が難航し、実現には至らない。

 日本で初めて実用化されたモノレールは、昭和3(1928)年、大阪の天王寺公園で開催された交通電気博覧会の会場内で、デモンストレーションとして運行された懸垂式の「空中電車」である。博覧会後に営業路線への転用も検討されたようだが、イベント期間に限った仮営業で運行は終了した。

 戦前には、東京や大阪、江ノ島などで、懸垂式モノレールを都市交通として営業する計画があった。例えば、東京では新宿から平塚を結ぶ日本飛行鉄道、上野動物園での上野懸垂電車などが計画されたが認可が下りなかったという。

 本格的なモノレールの運行が始まるのは戦後になる。昭和32(1957)年、上野動物園内に日本初の営業路線となる上野懸垂線が運行を始めている。その後、読売ランドモノレール、奈良ドリームランドモノレールなど遊園地にモノレールが導入された。

 昭和39(1964)年、羽田空港へのアクセス路線となる東京モノレールが開業する。技術導入のうえ日立製作所が製作した跨座式の車両が採用された。運行開始から60年を数えるが、現在も多くの乗客を輸送している。

 1980年代になると道路交通の渋滞問題が深刻化するなかで、モノレールが本格的な都市交通として導入される事例が増える。昭和60(1985)年にはJR小倉駅と各所を結ぶ北九州モノレール、平成2(1990)年には大阪国際空港(伊丹空港)へのアクセス路線となる大阪モノレール、平成10(1998)年に多摩地域を南北に結ぶ多摩モノレール、平成15(2003)年には那覇空港と那覇市中心部、首里を結んで、県民や観光客の重要な足となった沖縄都市モノレール(ゆいレール)が運行を始めている。

 同様に都市の交通問題を解決するために、1960年代から世界各国で開発が始まった交通手段が、いわゆる新交通システムである。従来の鉄道とバスの中間的な輸送能力を持つ中量軌道システムとなることが期待され、日本でも1970年代から開発・導入が進められた。

 昭和50(1975)年の沖縄海洋博覧会では、新交通システムが期間を限って運行され、実用化に向けたステップとなった。昭和56(1981)年に神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)と大阪市交通局南港ポートタウン線(ニュートラム)が、日本で最初の営業路線として開業している。特にポートライナーは、世界で初めて完全自動無人運転を実現した営業路線として知られている。その後、横浜シーサイドライン(1989=平成元=年)、神戸六甲アイランド線(1990=平成2=年)、広島アストラムライン(1994=平成6=年)、ゆりかもめ(1995=平成7=年)など、多くの都市で導入された。