3.弾丸列車から東海道新幹線へ

昭和時代における鉄道の電化を語るうえで、東海道新幹線をはずすことはできないだろう。日本の高度経済成長を象徴するプロジェクトであり、開業から60年以上にわたって日本の大動脈として重要な役割を担い続けている。大量輸送と高速性を両立させたそのシステムと、高い安全性と定時運行を実現した技術は、世界に誇るべきものであり、海外の高速鉄道プロジェクトに大きな影響を与えた。
計画は昭和14(1939)年に策定された「弾丸列車計画」に遡る。輸送力が限界に達していた東海道本線および山陽本線に並行して、広軌(標準軌)の新線を建設し高速列車を走らせるというものであった。戦争の激化により計画は断念されたが、買収済みの用地や一部のトンネルは戦後の新幹線建設に活用された。
1950年代後半、戦後復興を促進するなかで、東海道本線の輸送力増強が再び喫緊の課題となり、狭軌のままで線路を増設する案と、広軌の新線を建設する案が議論の俎上にのぼる。結果、国鉄総裁であった十河信二氏らが主張した広軌新線の建設が、昭和33(1958)年に閣議決定された。
昭和34(1959)年4月20日に起工式が行われる。世界銀行からの借款を活用して、工事が進められる。昭和39(1964)年10月1日、東京オリンピックの開催を控えたタイミングで東京~新大阪間での運行が始まる。開業後、乗客数は順調に増加、特に1970(昭和45)年の大阪万博開催に向けて列車の増発や、16両編成化など輸送力増強が進められた。
保安装置として、開業当初から「ATS」ではなく、「ATC(Automatic Train Control:自動列車制御装置)」が採用されていた点は特筆に値する。時速200kmを超える高速運転を行うことが想定された東海道新幹線では、計画段階から、在来線で使われていた地上信号機とATSでは不十分だと思われた。より連続的でシームレスな速度制御が必要であるという考え方のもとに、許容速度を超えると自動的にブレーキが作動するATCが開発され導入された。
開業当初のATCは、地上に敷設された軌道回路から速度情報(信号)を連続的に列車に送り、列車はその情報に従って速度を制御するアナログ方式が採用されていた。ATSが「点制御」であるのに対して、ATCは常にすべての列車の速度を監視し、状況に応じて適切な速度に制御する「連続制御」を可能とするシステムであり、世界的に見ても画期的な技術であった。
その後、2002(平成14)年に開業した東北新幹線の盛岡~八戸間では、さらなる高速化や輸送密度向上に対応するため、より高機能なデジタルATC(D-ATC)が開発された。速度情報に加えて、列車位置や曲線・勾配などの詳細な情報をデジタル信号でやりとりをすることで、よりきめ細やかな速度制御が可能となった。東北新幹線に続いて、東海道・山陽新幹線を含む各新幹線に順次導入が進められ、乗り心地の向上や、列車の運転間隔を詰める高密度運転の具体化に貢献した。
東海道新幹線を代表する車両として、ここでは0(ゼロ)系を選びたい。1964(昭和39)年の開業に合わせて開発された初の新幹線車両であり、ひかり号、こだま号として運用された。在来線とは異なる交流25,000Vを採用、最高速度時速210kmで東京~新大阪間を最短4時間で結び、当時のビジネス特急「こだま」の6時間50分から大幅に時間を短縮した。
電化の視点から見ると、0系に連結された日本初となる通路分離型の食堂車にも注目したい。電子レンジをはじめ多くの厨房機器が電化されており、列車電話も装置されていた。
0系は、1964(昭和39)年から1986(昭和61)年までの23年間にわたって改良を重ねながら、総計3,216両が製造された。その後、後継車両の登場に伴い、徐々に運用を減らし、2008(平成20)年11月の定期営業運転、12月のさよなら運転をもって、44年間の営業運転を終了した。
0系は、営業速度が世界で初めて時速200kmを超えた車両である。また日本の高度経済成長期の象徴であり、新幹線というブランドを世界に確立することに貢献した。その技術とデザインは、その後の新幹線車両の基礎となっており、昭和の電化遺産にふさわしい。





