
◆地域と人財と、遂げる
「女川は無事です」。東日本大震災の発生を受け、東北電力社長(当時)の海輪誠は出張先の名古屋から、急ぎ仙台の本店へ戻る途中で報告を受けた。2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の国内観測史上最大規模の巨大地震が東北地方を襲った。震源に最も近かった女川原子力発電所は1、3号機が運転中。定期点検中だった2号機は午後2時に原子炉を起動させたばかりだった。
発電所長だった渡部孝男は、所長室で2号機臨界の報告を待っているさなか、地面の底が抜けたような激しい揺れに襲われた。渡部は直ちに緊急対策室に入り指揮を執った。地震で全号機が自動停止した後、午後3時29分に最大約13メートルの津波が襲来。14.8メートル(地震による沈下で実際は13.8メートル)の敷地高が津波を防いで重要な設備を守ったが、所内で火災、浸水が発生。所員らの奮闘でトラブルを乗り越え、約10時間後には全号機で冷温停止を達成している。
海輪は「本当に安堵(あんど)した」と振り返る。東北エリアでは太平洋側の火力発電所、送電、配電など多くの電力供給設備が被害を受け供給支障が発生。停電は延べ約486万戸と、エリア全体の約7割に及んだ。冷温停止を受けて海輪は「被災地全体の安全維持、広域停電の解消、被災設備の早期復旧などの対応に集中できた」と述懐する。
震災の翌年、構内をくまなく調べたIAEA(国際原子力機関)調査団は「あれほどの地震動にもかかわらず、構造物・機器は驚くほど損傷が少なかった」と報告書にまとめた。
◇受け継ぐDNA
女川原子力が無事だったのは幸運でも、奇跡でもない。
渡部は人財面の強みを一番に挙げる。発災時には所員や協力会社も含め「全員が成すべきことを考え、自主的に動いてくれた」と強調する。家族の安否も分からぬまま、懸命の作業に当たった。これは使命感という言葉だけでは説明できない。非常事態の中で「何としても発電所を守る」という行動の裏では、先輩から受け継いできたDNAが確かに“発動”していた。
同社の原子力事業は全国でも後発組ながら、女川1号機に始まり2号機、3号機、東通原子力発電所と1基ずつ着実に建設してきた。それが継続的な人材育成や技術継承、安全や地域に対するマインドの醸成につながった。「時間をかけ人を育ててきた」(渡部)ことが、発電所を救った根本にある。
災害への「備え」に対する同社の感度の高さも光る。海輪は、かねて自然災害との闘いを同社創業以来の「一丁目一番地」と強調する。東北・新潟地域は風水害・雪害に加え、地震・津波も「必ず来るもの」と受け止められている。そこで暮らす者には自然への「畏怖の念」が根付く。震災後、海輪は原子力規制委員会とのトップ面談で、自社にとって安定供給を「使命」とするなら、自然災害との闘いを「宿命」と説明している。
設備対策では、他社や地域などから謙虚に学び、外部の意見、最新知見を積極的に取り入れた。中央制御室の制御盤への手すり設置、海水ポンプのピット化、防潮堤の補強などだ。こうした自主的な地震・津波対策が震災時、存分に機能を発揮した。
危機管理面でも“アップデート”に余念はなかった。常に想定外を意識し、「訓練のための訓練はしてこなかった」(渡部)。非常災害時の体制も「過去の災害を踏まえ見直してきた」(海輪)という。
◇信頼獲得は根幹
一方、地域からの理解・信頼の獲得を原子力事業の根幹と肝に銘じてきた。反対運動もあった黎明(れいめい)期の労苦を踏まえ、世代を超えて「地域との共存共栄」の姿勢を貫いた。そこに暮らし、苦楽を共にしてこその共感・共鳴がある。震災時、発電所は避難住民を受け入れ、全社を挙げて支援したことも、「寄りそう者」としての偽らざる気持ちではなかったか。
女川原子力は、“人”を基盤に感度の高い“備え”と地域の“理解”をもって、再稼働が成った。ただ海輪、渡部とも「長すぎた」とする14年の歳月で、電気事業を巡る環境は一変した。人材育成、技術継承、地域との関係構築も初心に戻る必要がある。そこで同社は2号機の再稼働を「再出発」と位置付け、新たに生まれ変わる決意を込めた。震災からの復興、全ては地域のために。希望の光は見えている。(敬称略)
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女川2号機は、24年10月29日に原子炉を起動。11月15日に約14年の歳月を経て再稼働(発電再開)を遂げ、12月26日に営業運転入りを果たした。東日本大震災で被災したプラントで、炉型は事故を起こした東京電力福島第一原子力と同じBWR(沸騰水型軽水炉)。再稼働に至る道は平たんではなかった。連載企画「新・原子力考」の第2部では、その後に続いた中国電力島根原子力発電所2号機の事例も交えながら、BWR再稼働への道筋を振り返る。
電気新聞2025年2月7日