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電気新聞2016年5月10日掲載のコラムを加筆・修正しています

 これまで5回にわたり書いてきた福島事故が教える原子力新常識の基礎となる事実は、「炉心の溶融は崩壊熱ではなく化学反応で起きた」、「ベントの放射能除去効果は大きく溶融炉心からの放出ガスを避難線量値以下にまで減じ得た」の二つである。

 復習すると、炉心溶融は化学反応で起きるのであるから、その反応条件を外すことができれば炉心溶融は起きない。従って爆発も起きない。その反応条件を外す具体的な手段の一つが圧力容器の減圧で、開いた弁から流出する蒸気により燃料棒が徐冷されるので、被覆管も冷えて水と反応できる温度ではなくなる。そのタイミングを逃さず海水を注入すれば、化学反応は起きず、反応熱や水素は発生しないから、溶融や爆発は起きない。この状態は,崩壊熱によって燃料棒温度が再上昇するまでの僅か1時間ほどの短い時間だが、あの福島事故の過酷な状況下でも、このチャンスは存在した。

 炉心溶融が化学反応と論証できたのは、2号機事故の進展状況がTMI事故の溶融経緯と酷似していたからだ。その詳細は、拙著『考証 福島原子力事故』に譲る。

 ベントに失敗した2号機では、格納容器の圧力を低くする方法がなかった。減圧により圧力容器から放出された水蒸気や水素ガスで、格納容器内部は高温過圧状態となり破損した。そこから漏れ出た溶融炉心からの放射能で周辺の線量率は上昇し、避難勧告値を超えた。事故を感知した時点で躊躇せずにベントを開く習慣があれば、格納容器の過圧破損は起きないから、ベントの除染効果で周辺の線量率が避難勧告値を越える事はなかった。

 この二つの事実をより具体的に説明すると、ベントさえ開いていれば、あの10日間にわたる長期の全電源喪失事故が続いた状況でも、消防車が一台あれば炉心溶融は防止できたし、大規模な住民避難は避け得たといえる。

 この結論は、原子力関係者にとってはこの上ない朗報だが、初めて聞く一般の方は、本当かと我が耳を疑われようし、批判的な人はまたぞろ安全神話の復活と目くじらを立てられよう。だがこれは、福島事故のデータを分析すれば素直に出る結論であり、論理的には曲げ様のない事実である。

 この結論は、米・スリーマイル島原子力発電所事故(TMI)や旧ソ連・チェルノブイリ原子力発電所事故と比較照合すると、より明確で、分かりやすい。

 原子炉火災を起こしたチェルノブイリ事故では、強制避難をした人達(約13万人)が浴びた被曝線量の平均は、約100ミリシーベルトであった。全く不可能な事だが、もしこの放射能が水ベントを通って放出されたと仮定すると、福島事故でのベントの実績からみて、被曝線量は千分の一の0.1ミリシーベルトに下がる。

 この場合、驚くなかれ、あのチェルノブイリ事故ですらベントの「嗽(うがい)」除染効果によって、避難の必要はなかったという結論となる。水ベントの効果は驚く程大きい。

 このように、福島事故によって明らかになった二つの新事実は、過去の原子炉事故とも照合できて、不自然なところはない。

 では何故、これほど重要な事実が今日まで知られていなかったのか。その答えは我々原子力技術者の勉強不足にある。面目ない話だが、TMIやチェルノブイリ事故の当時は、この事に気付かなかった。複数の炉心溶融事故が起きた福島事故で初めて気付いた次第だ。事故の再来で初めて知った新知識と言ってよい。

 この新知識の登場で、原子力発電所の安全は急速に進歩した。その進歩は、多大の費用を必要とする設備の増加ではなく、これまで気付かなかった軽水炉が持つ本質的な安全能力の発掘、気づきにある。

 発電所をどう扱えば事故時の安全を確保できるか、どう改良すれば被曝量を緩和できるか、福島事故はこういった安全の実際を教えてくれる宝庫だ。我々はもっと積極的に福島事故を学び、新知識発掘に努力すべきであろう。

 原子炉の持つ安全能力は、事故後のみならず今も喧伝されているような劣弱なものではない。我々が知る以上に幅広くて強靱だ。これが今回の新常識、いや事故が教える新知識だ。

 事故が起きた事は悲しく辛い。だが事故は、悲しい災害記録としてだけ残すものではない。冷静に分析して後世に役立つ智恵を残すことが我々の役目だ。

 事故から5年[編注:執筆当時]、衝撃と狼狽から離別して、自信を持って英知を引き出して行こうではないか。

電気新聞2016年5月10日

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東京電力・福島第一原子力発電所事故から7年。石川迪夫氏が2014年3月に上梓した『考証 福島原子力事故ー炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』は、福島原子力事故のメカニズムを初めて明らかにした書として、多くの専門家から支持を得ました。石川氏は同書に加え、電気新聞コラム欄「ウエーブ・時評」で、事故直後から現在まで、福島原子力事故を鋭い視点で考証しています。このたび増補改訂版出版を記念し、「ウエーブ・時評」のコラムから、事故原因究明に関する考察を厳選し、順次掲載していきます。