全電力から応援の電源車が駆け付けた熊本地震。16年4月22日、瓜生社長(当時、左)は現地を回り、応援部隊に感謝を述べた

 地域に未曽有の被害をもたらした2016年4月の熊本地震から14日で5年がたつ。九州電力と協力会社、他電力応援部隊が総力を挙げて臨んだ電力復旧は「技術の粋」を集めた対応として今も語り継がれる。本店で陣頭指揮を執った経営幹部と、現場第一線で奮闘した関係者に取材した。

 4月16日深夜1時25分。熊本地方を震源とする最大震度7の地震が発生した。福岡市の自宅にいた九州電力社長(現会長)の瓜生道明は強い揺れを感じ、本店に向かった。

 熊本地方は2日前の4月14日夜にも強震に見舞われた。のちに「前震」と整理されるこの揺れにより、益城町などで1万6700戸が停電。東京に出張していた瓜生は、有楽町の東京支社と福岡の本店をテレビ会議でつなぎ、復旧の陣頭指揮を執った。

 翌朝福岡に戻り、1日がかりで対応にめどをつけ、帰宅した矢先に「本震」が起きた。戻った本店はエレベーターが動かない。徒歩で向かった12階の非常災害対策総本部には、復旧の報告書を作成する居残り組数人しかいなかった。
 
 ◇唯一のルートが断絶
 
 被害状況を把握するため、熊本支社と連絡を試みたがつながらない。地震による壁損壊、漏水で社員が地下に避難していたからだ。1時間後に支社の対策本部が復帰。社員らは疲労が抜けぬまま、再び復旧に乗り出した。

 この時、熊本で停電したのは大きく分けて熊本市・益城町、大津、阿蘇の3地区。復旧で最大の焦点になったのが阿蘇地区だ。本店12階の緊張が一気に高まったのが、16日昼頃。巡視員が撮影した画像から、県北東の阿蘇地区に電気を送る黒川一の宮線の鉄塔が地滑りや地割れで傷み、使用できないと分かった。

 同地区に供給できる送電線はその1ルートのみ。「仮鉄塔をつくるとしてもコンクリート打設に時間がかかり、最低でも1カ月以上停電する。大変な事態だと感じた」(瓜生)
 
 ◇全電力から集結
 
 足元の戦況は厳しい。だが、ここから電力史に刻まれるべき復旧が始まる。

 端緒を開いたのは高圧発電機車(電源車)だった。「停電が長引けば阿蘇の生活基盤が壊れる。私はもともと火力屋なので、電源さえ持ち込めれば電気を送れるだろうと。そこで配電部門と話し合い、電源車を分散型電源として使おうと決めた」(瓜生)

 本震から数日間は個別施設に供給する一般的なスポット送電でしのいだが、その後の対応は全くの別物だ。全電力の応援110台を含む約170台の車両を阿蘇地区の配電線に分散配置し、当該地区の需要約3万キロワットを賄う面的送電を展開した。

 これにより本震からわずか4日後の20日夜には、立ち入れない一部地区を除き、阿蘇地区でも「電気が使える生活」を取り戻した。

 だが、それでも課題があった。「このやり方は1週間程度しかもちません」。瓜生のもとにそんな報告が上がっていた。頑丈につくられた発電所と違い、電源車の運転継続時間には限界がある。

 実際、稼働から数日もたず数台が故障した。電源車が音を上げる前に送電線を復旧できないか――。とはいえ平時でも鉄塔建設には数カ月かかる。誰もが不可能だと思う要請に応えたのが、送電部門と協力会社だった。

 コンクリートの代わりに鉄板を敷き詰め、基礎とする特殊工法を採用。驚異的なスピードで仮鉄塔を組み上げ、4月28日、阿蘇地区への送電開始にこぎ着けた。

 どのような状況下でも、復旧を諦めない関係者の執念と技術力が次々と難局を覆していった。震災から5年を経て、瓜生はこう語る。「理解していたつもりだったが、安定供給にかける九州電力グループ、協力会社のDNAの強さを腹の底から実感した。心底誇らしかった」(敬称略)

◆熊本地震
 2016年4月14日午後9時26分に益城町で震度7、熊本市などで震度6弱の前震が発生。その2日後の16日午前1時25分頃、益城町、西原村で震度7、南阿蘇村などで震度6強の本震が発生した。本震では最大47万6600戸(16日午前2時時点)が停電。九州電力は全社約3600人を動員するとともに、約600人の他電力応援を受け、復旧作業を展開した。

電気新聞2021年4月12日

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