東京電力福島第一原子力発電所事故で全町避難を迫られた福島県大熊町。東京電力ホールディングス(HD)子会社で同町に本社を置く東双不動産管理は一時存続の危機に立たされるも息を吹き返し、今年2月には本社事務所を約14年ぶりに同町内に戻した。住む場所も働く場所も転々とした同社社員の14年を追った。(東京支局長・儀同純一)(敬称略、年齢は現在)

2月に入居した新本社事務所


 2011年3月11日、東双不動産の鎌田良博(56)は大熊町内の本社事務所で東日本大震災に遭った。いったん帰宅することになり、同僚3人と車に乗り合わせて北へ。津波が街をさらう光景を目の当たりにしたのは、福島県南相馬市内を走っている時だった。同市にある鎌田の自宅は津波で流され、同居していた父親が命を落とした。

 震災3日後、福島県川俣町の旧小学校に避難していた鎌田の携帯電話が鳴った。「東電不動産の寮を開放するから、こっちに来ないか?」。横浜市内の寮で家族と暮らすことを決めた。東京・京橋にあった東電不動産の本社に通い、社員の安否確認や寮への社員受け入れ調整などに当たった。

 4月からは福島県内各地で短期滞在しながら避難所の開設、運営を支援。8月からは福島第一構内で寝泊まりしながら緊急医務室で働き、医師の送り迎えや担架の運搬などに従事した。

 鎌田が生活を送る福島第一では9月、食事がレトルト食品から弁当に切り替わった。その弁当の手配を担ったのが、東電子会社で単身寮や社員食堂の運営を手掛ける東京リビングサービスだった。

 ◇経営合理化

 東電は12年7月、経営合理化のために東京リビングサービスを日本ゼネラルフードに売却。それに先駆けて同年4月には、東京リビングサービスの福島関連事業などが東双不動産に移管された。「不安もあったが、生活もあるので『ここでやるしかない』と思い直した」。東京リビングサービス福島支社で働いていた遠藤晶(54)は回想する。

 遠藤は、東双不動産の太田眞博(54)と共に事業移管業務を牽引することになった。2人は大学の同級生。太田は震災後、賠償関連業務や避難住民の一時帰宅支援業務などに携わっていた。

 東電は11年夏に、廃炉作業の拠点となっていたJヴィレッジのスタジアム内に単身寮を整備している。鎌田は同年11月以降、福島県いわき市のホテルからJヴィレッジに通い、寮の清掃やごみの分別に当たった。12年3月からはその寮に住み込んだ。

 東双不動産は同年4月、主要拠点をJヴィレッジ内に移した。Jヴィレッジ内で働く約20人を含めて社員は30人程度。そこに遠藤ら8人の元東京リビングサービス社員を加えても総勢40人ほどに過ぎなかった。有期雇用のスタッフはほとんどが退職した。

 ◇業務を喪失

 震災時、東双不動産は社員約50人、スタッフ約60人を抱えていた。事業の柱は福島第一、第二の施設管理や清掃、緑化、展示館の案内など。福島第一事故によって大半の仕事が失われた。年間売上高は事故前の14億~15億円から、一時は2億円ほどに落ち込んだ。

 それからは「何でも仕事を受けた。それでも全ての従業員に仕事が行き渡らず、辞める人が相次いだ」。総務・人事を担当してきた安倍康弘(65)は振り返る。「ほとんどの社員が地元住民だったので、震災後は避難生活を余儀なくされた。すぐには自宅に戻れないと考え、避難先で仕事を見つける人も多かった」

 福島第一の展示館などの案内業務を担っていた堀江仁美(51)も「案内スタッフ11人のうち、残ったのは私を含め3人だけだった」と明かす。

 東電がこの頃にグループ会社の再編、売却を進めていたので、鎌田は「東双不動産もなくなってしまうのではないか」と行く末を案じていた。しかし会社の売り上げは底を打ち、急回復を遂げていく。

電気新聞2025年3月11日