アラスカLNG長期契約調印式(前列左から東ガスの安西浩副社長、本田弘敏社長、東電の木川田社長=1967年3月)
アラスカLNG長期契約調印式(前列左から東ガスの安西浩副社長、本田弘敏社長、東電の木川田社長=1967年3月)

 1969年11月4日。日本に初めてLNG(液化天然ガス)船が入港した日、買い主として記者会見した東京電力の白澤富一郎副社長は「新しいLNGの時代を迎える」と高らかに宣言した。もう一社の買い手である東京ガスの安西浩社長は「輸入量が少ないと経済ベースに乗らないので、木川田一隆・東電社長の英断が全ての基礎を築いたものと感謝したい」と低頭した。だが、この安西氏こそ仕掛け人であり、「ミスターLNG」と呼ばれたその人だった。
 
 ◇英国で情報収集
 
 日本の初受け入れより10年前の59年。世界初のLNG実験船「メタン・パイオニア号」が米国から英国まで航行した。積載量はわずか2200トンだったが、この経験を経て英国は1960年代半ばにアルジェリアからLNGの輸入を開始。これがLNG貿易の始まりだった。

 これら一連の出来事が起こる前の58年、副社長だった安西氏はニュースを聞きつけると即座に渡英し、英国ガス公社からLNGの情報収集を試みている。この頃、都市ガスの安定供給と価格安定のために原料を石炭から石油系に切り替え始めたばかりだったが、既に次の原料として天然ガスに目をつけていた。そして東ガスは60年にLNG導入を正式に意思決定するという驚異的な早さで動いた。

 その後も安西氏は精力的に活動した。輸入量を増やし、LNG購入価格を下げるため、まだLNG火力のない東電に共同調達を提案。東電の木川田社長に面会し、書簡でも必要性を訴え続けた。その結果、両社は67年にアラスカ産LNGの長期契約を締結した。東ガスの年間調達量は24万トンで、東電はその3倍の72万トン。初受け入れ後の記者会見で、安西氏が東電に謝意を示したのは本心からの言葉だろう。

 何が安西氏を突き動かしたのか。「東京に青空を取り戻そう」という号令のもと、公害対策の切り札としてLNGを導入したというのは語り草だ。だが、それだけではない。

 「毎年、需要が10%伸び、いかにガスを効率的に製造するかが課題だった。従来ガスの2倍の熱量を持つ天然ガスは理想的なエネルギーだった」。東ガス入社4年目の67年に資材部原料課に配属されて初受け入れに尽力し、後に原料部長を務めた大沼明夫氏(78)はこう語る。

 熱量が2倍になれば導管の効率も倍増し、設備投資を抑制できる。従来の石炭や石油系から都市ガスを製造する装置は複雑で大型だったが、LNGを天然ガスに気化するのは簡易な装置で済んだ。LNG本体の価格は割高でも供給インフラ全体を効率的に形成できるようになり、都市ガス事業の経済性は高まった。
 
 ◇「S+3E」支え
 
 天然ガスは世界に広く分布し、豊富な埋蔵量があることが分かっていた。1972年にシンクタンクのローマ・クラブが「成長の限界」というリポートで石油の枯渇を警告し、翌年の石油危機で世間は狂乱騒ぎとなる。石油は枯渇しなかったが、天然ガスは資源確保の面でも大きく期待された。東ガス現社長の内田高史氏は「結果としてLNGはS+3Eという日本のエネルギー戦略の根幹を支えてきた」と、時代を先取りしてきたLNGの意義を語る。

 もちろん安西氏だけでなく、東ガス社員が一丸となってLNG初導入を実現したのは言うまでもない。大沼氏は通商産業省や海上保安庁、神奈川県などにLNGの安全性などを説明し、必要な許認可を得るのに奔走。新しいものに慎重な行政の首を縦に振らせるまで何度も通い詰めた。大沼氏は「新しいエネルギーで万一ミスが起これば、将来の全てが失敗に帰する」と、当時の緊張感を振り返る。

 そうした困難を乗り越え、米国アラスカ州から横浜市の東ガス根岸工場に無事到着したLNG輸送船ポーラ・アラスカ号。揺れる船のはしごを、柔道でならした安西氏の巨体が上っていく光景は、「10年以上温めていたものがようやく実現した」と話す大沼氏の目に焼き付いている。
 

◇ ◇ ◇

 
 「日本は資源がないから頼りないという風潮があるが、買い手の立場は強いんだという気持ちで臨まないと購買担当者は務まらない」。その後、インドネシアやマレーシア、カタールなど各国とのLNG売買契約に携わった大沼氏は、これまでの経験からこう強調する。この発言は、世界のLNG需給が緩む現状を好機と捉え、契約の多様化を目指す東ガスの今の姿と重なる。LNG50年の歴史を振り返り、現代に生きる教訓を探る。

(肩書、組織名は当時)

電気新聞2019年11月14日

※連載「LNG半世紀」は全4回です。続きは電気新聞本紙または電気新聞デジタルでお読みください。