2011年3月の東日本大震災は、東北電力が保有する太平洋側の火力発電設備に壊滅的なダメージを与えた。供給力不足に直面し、被災した電源の早期の戦列復帰が経営上、最重要課題になる一方、復旧の見通しすら立たない状況だった。当時、東北電力副社長・火力原子力本部長代理だった加藤博・東北発電工業会長、火力部副部長だった松崎裕之・同副社長に振り返ってもらった。
――火力の被災状況を把握したとき、どのような思いを抱いたか。
加藤 ポンプやモーターなど様々な機器が発電所の1、2階にある。詳細な被害状況が分からない段階でも、津波で冠水した設備は点検が必要だし、使えないだろうと思った。構内には車両が突っ込んでいたり、あらゆるがれきが散乱したりしていた。復旧の見通しを立てられない有様だった。
松崎 発生翌日の3月12日、仙台火力に入った。サービスビル1階にある配電盤には海藻やヒトデが張り付いてる状態だった。7月の異動で新仙台火力、仙台火力の所長に就いたが、誰も経験したことがないレベルの設備被害。いつまでに復旧できるか、先行きは分からなかった。
――新仙台1号機が11年12月に運転を再開した。早期の戦列復帰を可能にしたのは何だったか。
加藤 11年7月の新潟・福島豪雨で会津地方の水力発電所が深刻なダメージを受け、供給力を約100万キロワット失った。これでは冬のピーク期を乗り切れないおそれがあった。被災直後はみんな呆然(ぼうぜん)とし、生気のない目をしていたが、この頃から復旧に向けた作業が急加速していった。仕事が動き出し、一気に走り始めた感がある。工程会議を1日5回行うなどして、メーカーや協力会社に「一日でも、一時間でも前倒しできる工程を考えてほしい」とお願いした。私自身もメーカー本社や工場に行き、とにかくお願いするしかなかった。現場では、「できない理由」を探すのではなく、少しでも工程を短縮するアイデアを若手社員が自発的に出してくれた。
松崎 例えば交換用のケーブルが手配できなかったとき、全て交換するのではなく、一部だけの交換で済むのではないか、といった提案が寄せられたりした。海水に浸かったモーター類も取り換えるのではなく、どこまで洗浄すれば使えるか試験することになった。こうした発想は、若手から自発的に出てきたものだった。通常は、チャレンジするよりも、大きなトラブルがないようにというのが仕事の基本。だから若手からどんどん提案が出てきたことは正直、意外だったし、頼もしくも思えた。それまで取引関係がなかったメーカーからも協力や提案を頂いた。
――長丁場の作業。気をつけた点は。
加藤 年単位での作業になることが予想された。あまり無理筋のことをせず、きちんと休み、食べ、風呂に入り、仕事に臨んでほしいとの思いだった。そうしないと体力も精神面も保てない。
松崎 資機材がどんどん現場に送られてくる。搬入用のクレーンが限られる中、秒単位での取り合いとなった。そうした調整が課題だった。現場はどうしても前のめりになりがち。経営層から『あまり前のめりになるな』と言われたことを覚えている。
――当時の経験を踏まえ、今後に語り継ぎたいことは。
加藤 復旧作業の中で、若い人たちがものすごい力を発揮してくれた。やはり、若手が主体的に動ける環境をつくっておくことは大事だと思う。先頭を走る人の存在は重要だ。みんなが『お先にどうぞ』というのは、緊急時には良くない。経営層がやるべきことは、“突破口を開く人”が出てきやすい環境をつくることではないだろうか。
電気新聞2018年3月6日