戦後の需要増/電源が続々と/「黒字化」課題

 
 沖縄の日本復帰と同じ1972年5月15日、沖縄電力が発足した。当初は「特殊法人沖縄電力株式会社」として事業を開始し、沖縄の家庭や法人に電力を安定供給。88年に民営化してからはガス供給事業やESP(エネルギー・サービス・プロバイダー)事業なども手掛けてきた。半世紀にわたる同社の歴史を「設立の経緯」「民営化前」「民営化後」の3つに分けて、「あんやたん、かんやたん(沖縄の言葉で、ああだった、こうだった)」と振り返る。(旭 泰世)

 沖縄の電気事業の興りは1910年12月、沖縄電気が電気の明かりを那覇市でともしたことに始まる。大正から昭和にかけては名護電灯、宮古電灯、八重山電気の3事業者がそれぞれ開業。いずれも発電設備は小規模で、供給区域は限られていた。

 太平洋戦争直前の41年8月には、国家総動員法に基づく配電統制令が公布され、日本発送電と9配電会社の体制が確立。沖縄の電気事業者4社は九州配電に統合された。しかし戦争末期の沖縄戦により、沖縄全域の電気事業は崩壊し、住民は電灯から石油ランプの生活に再び戻ることとなった。

 戦後、軍政後の統治機構として発足した琉球列島米国民政府は、現在の沖縄電力本店が位置する浦添市牧港に牧港発電所(1万1500キロワット×4基)の建設を始めた。50年前後の沖縄経済は基地の建設や朝鮮戦争による特需で急速に復興しており、電力需要が増大。同発電所は産業復興の要として活躍した。

 米国民政府はさらに電力系統施設の運営形態についても検討を開始。同政府が発送電部門を担い、民間企業が配電部門を運営するという方針を決定した。54年には発送電部門を担当する機関として琉球電力公社を設立。配電部門は沖縄配電、中央配電、松岡建設、比謝川配電、名護配電の5社が運営を行った。
 

料金は本土並み

 
 琉球電力公社が発足した当時は、米軍基地の拡張に加え、民間地域の電化が進み、電力需要が毎年2桁台の伸び率となっていた。そこで金武発電所(2万2千キロワット×4基)などの電源開発に注力し、供給信頼性を確保。設備の更新・大型化・近代化を進めたことで発電原価が低減し、68年には卸売料金の引き下げにもつながった。これを受けて配電会社も小売料金の値下げに踏み切り、沖縄の電気料金は本土と肩を並べるまでになった。

 69年の日米共同声明で沖縄が日本に返還されることが明らかになると、通商産業省(現経済産業省)は電気事業の引き継ぎ方針について検討を重ねた。発送電部門と配電部門が琉球電力公社と民間5社で分かれていることや、離島に小規模な電気事業者が混在していることなど、課題は山積。電気事業法の「発送・配電の民営一貫体制」の方針に照らし、5配電会社の合併に向けて調整を進めることとなったが、各社の主張が食い違うなどして難航。時間的制約もあり日本復帰前の配電合併は実現できなかった。

 通産省は最終的に、琉球電力公社を現状のままの事業内容で、新しい企業形態に移管することを決定した。(1)本土の9電力会社または電源開発のいずれかへの吸収(2)県営または県公社(3)新たな特殊法人としての出発――の3つの選択肢を検討した結果、法律上および手続き上の容易さから(3)の「新たな特殊法人としての出発」を採用した。そして72年5月15日、日本政府が琉球電力公社の資産を買い取り、国と沖縄県の共同出資による「特殊法人沖縄電力株式会社」が設立した。
 

為替や燃料費が

 

沖縄電力発足時の電気新聞紙面。赤字解消が課題となった

 同日付の電気新聞では沖縄電力発足を1面トップで取り上げた。「予想される赤字をどのように黒字に転化するか」(松岡政保社長)が最大の課題と報じている。為替レートの変更に伴う差額や、借地料・燃料費の値上がり、設備更新などが赤字要因として懸念されており、前途多難なスタートだったようだ。

電気新聞2022年5月17日

(2022年5月17日付~20日付の連載記事[あんやたん・沖縄電力50年の歩み]の第1回です)