地震で4階部分が崩れた日立製作所日立事業所・国分工場の本館

 
 東日本大震災から10年。電機、電線メーカーなども自社工場が被災。その復旧に加え、東京電力福島第一原子力発電所事故の対応や被災した火力発電所の再稼働にも尽力した。現場で奮闘した人たちは今何を思うのか。メーカー関係者にあらためて当時を振り返ってもらい、震災で得た教訓やレジリエンス(強靱性)向上への道筋、在り方を探った。
 

 
 次々に事務所、工場の窓ガラスが割れ、製造装置も停止した。東日本大震災で震度6強を記録した日立製作所日立事業所(茨城県日立市)は海岸工場、国分工場など4工場の体制で送変電機器や発電機の生産を手掛ける。勤務する約2500人は揺れが収まるのを待って、事業所内の避難場所まで一斉に移動した。

 10年前の3月11日、日立電力システム社日立事業所総務部庶務課長だった水出浩司(現・日立人財統括本部エネルギー総務部長)は、海岸工場で被災。避難訓練で学んだ手順通りに従業員に避難を指示した。食堂に集まる帰宅困難者のために、近隣の貸布団屋にも出向いた。

 同事業所生産技術部国分生産技術推進グループグループリーダ主任技師だった寺門宏行(現・日立エネルギービジネスユニット製造本部生技部テクニカルエキスパート)も、客先から急いで国分工場に戻った。電力系統が停電していたので、応援に駆け付けた協力会社社員と共に非常用発電機を動かした。こうした行動は「特に指示があった訳ではない。みんなが自主的にやるべきことをこなしていた」と振り返る。

 翌12日、社員は各工場の被害状況を確かめた。発電機や変電機器の製造設備は点検が必要なものの大きな被害はなく工場内の停電が解消し、工業用水を確保すれば操業を再開できる状況だった。

 だが、工業用水の確保が困難を極めた。近隣の河川から取水していたが、導水用の約15キロメートルの配管が複数の場所で破断していた。修理のため協力会社を含め約50人が部品や工具を手に現場に入った。

 ◇手書きで広報も
 
 幸いにも部品を早期に調達できたことで、約2週間で配管の修理を終えた。工業用水を確保した各工場は、一部機器を除いて3月29日に生産を再開。当時、現場でメディア対応をしていた水出は「パソコンが故障していたので手書きで再開のプレスリリースを作った。メディアを通じて、お客さんに日立事業所が復活したことを伝えたかった」と力を込める。

 その後、4月下旬には重量285トンの大型変圧器を出荷。事業所の完全復旧を印象付けた。輸送時は特殊車両を使う必要があるので、道路管理者の許可がいる。国分工場から出荷拠点の日立港までの道中は所々が崩落していたものの、低速走行などを条件に許可が下りた。当時、日本AEパワーシステムズ開閉装置事業部技術部業務管理グループマネージャだった佐野慎一郎(現・日立エネルギービジネスユニット電力流通事業部送変電生産本部業務部長)は、「自治体や港湾管理者の協力のおかげで出荷できた」と回想した。

 ◇万が一に備える

 震災直後は各工場で社員が復旧に尽力。10年前の経験を踏まえ、食料品の備蓄量を増やし、復旧用の工具、部品も豊富にストックしている。非常用発電機の保有台数も増やし、万が一の停電にも備える。

 日立事業所の操業再開は社員だけでなく、自治体や協力会社のバックアップがあった。水出たちは「日頃から顔をつき合わせて地元の方や協力会社と会話することが大事。助け合いが復旧時に最も大切になる」ことを震災を経て再認識した。(敬称略)

電気新聞2021年3月11日

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