◆今回の論点
 安全審査を経て運転を再開した原子力発電所にも多くの「司法リスク」が存在する。行政訴訟では設置許可を巡り「判断過程審査」が適用されてきたが、規制体系の変更により根拠が揺らいでいる。また行政訴訟における「立証責任の転換」が民事差止訴訟に転用される根拠も不明である。さらに「人格権に基づく差止請求権」を根拠とする民事差止訴訟には、そもそも司法による判断が妥当かという問題も存在する。こうした法構成の差止訴訟は不適切であり、原子力発電所の安全性規制委審査やこれを統制する行政訴訟を通じて確保されるべきで、行政訴訟への一本化も選択肢と考える。

◆「行政訴訟へ一本化」選択肢
 ◇人格権に基づく民事差止訴訟/裁判所の役割、超える面も

 本年1月に島根原子力発電所2号機が営業運転を再開するなど、新規制基準に基づく原子力規制委員会の安全審査を経た原子炉の再稼働が段階的に進んでいる。その一方で、再稼働に反対する周辺住民らが原告となり、数多くの訴訟が提起されている。
 これら訴訟は大きく2つに分けられる。第一は、国(規制委)を被告として原子炉設置変更許可の取消しを求める行政訴訟である。多くは退けられているが、2020年12月の大阪地裁判決(関西電力大飯3.4号機)のように、裁判所が規制委の許可を取り消した例もある。また最近は規制委を被告とし、電力会社に対するバックフィット命令の発出を規制委に義務付けるよう求める、新たな形の行政訴訟も登場している。
 第二は、電力会社を被告として原子炉の運転停止を求める民事差止訴訟である。棄却例が多いものの、2022年5月の札幌地裁判決(北海道電力泊1号機)など、裁判所が運転停止を命じたケースもある。
 また民事差止訴訟と並行して、原告らが民事保全法に基づく仮処分を申し立てる例も多い。仮処分は決定後すぐに効力を持つため、裁判所が仮処分を命じたケースでは、電力会社は原子炉の即時停止を余儀なくされる。
 以上のように、規制委の安全審査を通過した後も、裁判所が原子炉の運転にストップをかける「司法リスク」が無視できなくなっている。

◆原子力訴訟をめぐる法的諸論点

 これら訴訟を原告・被告のいずれが勝訴したかという結論だけで論じては問題の本質を見誤る。裁判所がいかなる基準と事実認定に基づいて判断したかを虚心坦懐(たんかい)に理解し、法的判断の課題ないし論点を整理・検討すべきである。
 行政訴訟(設置許可処分の取消訴訟)をめぐる論点として、裁判所の審査方法が挙げられる。取消訴訟については、四国電力伊方発電所をめぐる1992年の最高裁判決が長らく先例とされてきた。同判決により、裁判所は設置許可をめぐる行政庁の審査をゼロからやり直すのではなく、行政庁の判断過程に重大な瑕疵(かし)はなかったかという観点で取消訴訟を審査すべきとの先例が確立された。
 行政処分の取消訴訟において行政庁の判断それ自体ではなく、その過程に絞って審査する、右のような裁判所の手法は「判断過程審査」と呼ばれる。「判断過程審査」の下では、裁判所は規制委の許可処分をできるだけ尊重し、その取消しは例外的な場合に限られる。伊方最高裁判決が原子炉設置許可の取消訴訟において判断過程審査を採用した理由については、同判決が「極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づく総合的判断が必要」とする原子炉の安全審査を、原子力委員会(当時)の科学的・専門技術的知見に基づいた意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的な判断に委ねたものである、などと説明されてきた。
 しかし最近、この「判断過程審査」の根拠を揺るがす変化が生じている。すなわち、東京電力福島第一原子力発電所事故を契機に、原子炉等規制法の大幅な改正や原子力規制委員会の設置といった原子力安全規制体系の大きな変化があった。また日本の原子力発電事業が萌芽(ほうが)段階にあった伊方発電所の設置許可当時(1972年)とは異なり、原子力発電の技術的理解は大幅に向上した。したがって、地裁レベルでは判断過程審査を維持した判決があるものの(注1)、今後もこれが維持されるかは不透明である。
 行政訴訟をめぐる別の論点として、立証責任の問題がある。伊方最高裁判決は安全審査に関する各種資料の多くを国が保有していることなどを根拠に、まずは被告(国)がその判断に不合理な点がないことを主張・立証すべきであるとし、事実上、立証責任を転換した。
 しかし現在では情報公開制度が拡充されるなど、原告側の各種資料収集手段も整備されている。そのため、立証責任をめぐる右のような考え方が今も妥当かは議論があり得よう。
 民事差止訴訟をめぐっても、立証責任をめぐる課題がある。民事差止訴訟では本来、差止めを求める原告側がその必要性を主張・立証する責任を負う。にもかかわらず多くの裁判所は、行政訴訟である伊方最高裁判決の立証責任に関する考え方を民事差止訴訟にも「転用」し、被告(電力会社)の側に国(規制委)の判断に不合理な点がなかったことの主張・立証を求め、それがなされなかった場合には不合理なものと推認するとしている。
 しかし、私人である被告電力会社に国の判断の妥当性を説明(立証)させることの根拠は、決して明らかではない。また民事差止訴訟の究極的な争点は、原子力事故発生による人格権侵害のおそれの有無である。だが規制委の判断の合理性と人格権侵害は直接には結びつかない。判断過程の不合理性・瑕疵の程度にも大小があろう。この点については、「規制委の判断に瑕疵がないという一事をもっておよそ人格権侵害がないとはいえない」し、「逆に瑕疵の存在の一事をもって当然に人格権侵害があるともいえない」との正鵠(せいこく)を射た指摘がある(注2)。
 このほか前述の仮処分については、差止仮処分がのちに取り消された場合でも電力会社の経済的な損失は回復不可能なため、そもそも仮処分の要件を満たすのかという疑問もある(注3)。

原告と被告の主張


◆「人格権に基づく民事差止訴訟」の問題点

 ほかにも民事差止訴訟には原子力過酷事故という低頻度・高影響事象に基づく差止請求の是非や、差止めの可否判断における原子力の公益性の位置付けといった問題があるが(注4)、以下では「人格権に基づく差止請求権」を根拠とする現在の民事差止訴訟の問題点を指摘したい。
 古くから裁判所は、名誉毀損やプライバシー侵害、または日照権侵害、環境公害といった類型で「人格権」を根拠に各種侵害行為の差止めを認めてきた。
 前述のように、原子力発電所の民事差止訴訟も人格権に基づいている。すなわちその原告らは、原子力事故により人格権で保護される自らの生命・身体等が侵害されるおそれがあるとして、運転差止めを求めている。
 ここに、民事差止訴訟の一つのゆがみを指摘できる。というのも原告らは多くの場合、原子力事故が生じた場合の被害の質的・面的甚大さを強調する(表の(3))。また裁判官も、福島第一原子力発電所事故を経た現在では、原子力事故の一般的な影響を内心から排除することは難しい。
 しかし請求の根拠となっているのは、あくまでも当該訴訟の原告個人の人格権ないしそれによって保護される生命・身体への被害である(表の(1))。したがって、差止めの根拠となるべき被害と原告らが主張している被害には、かなり乖離があるのではないか。
 また被告電力会社の側からも、気候変動対策への貢献といった原子力発電の一般的なメリットないし公益性が主張されることもある(表の(4))。このような主張は差止訴訟の法理論からは正当と思われる一方で、原告が主張する原子力事故の一般的被害(表の(3))と被告電力会社が主張する原子力発電の一般的なメリット(表の(4))の比較はもはや裁判所の役割を超えている。
 すなわち第一に、そのような一般的な比較衡量は法律専門職たる裁判官の能力の限界を超えるだろう。第二に―これがより重要であるが―、原子力発電のメリット・デメリットを比較してその是非を決することにつき、裁判所ないし裁判官は正統性をなんら有しない。それは本来、選挙という政治プロセスを経た国民の選択に委ねられるべき事柄である。原子力発電をめぐる国民の賛否は、いまだ分かれている。だからこそ裁判官は、政治プロセスを通じた民意による選択を上書きするようなことは厳に慎むべきであろう。
 民事差止訴訟が「法律上の争訟」(裁判所法3条1項)としての形式・外観を具備する以上、裁判所は差止めの可否を判断せねばならない。しかし筆者は「人格権に基づく差止請求権」という法構成を採る原子力発電所の民事差止訴訟は、不適切と考える。原子力発電所の安全性は、規制委審査やこれを統制する行政訴訟を通じて確保されるべきであり、過去に主張された「行政訴訟への一本化」は今でも有りうべき選択肢と考える。
 もちろん、そのためには法改正(立法)を要するが、仮に行政訴訟への一本化を目指すならば、行政訴訟の出訴期間(行政処分を知った日から6カ月。行政事件訴訟法14条1項本文)の緩和に加え、規制委の審査段階から周辺住民に一定の意見聴取の機会を付与するといった手続き面での手当ても同時に要請されよう。

注1:福島事故後の下級審判決については島津裕一郎「伊方発電所訴訟最高裁判決の現代的役割と課題」電中研報告SE24001を参照。
注2:安念潤司「判例批評」『自治研究』97巻1号131頁。
注3:仮処分の問題につき佐藤佳邦「原子力発電所の運転差止仮処分の検討」『環境法研究』17号145頁、同「仮処分の再申立ての規律」『自治研究』(近刊予定)を参照。

注4:佐藤佳邦「原子力運転差止めの判断基準について」電力中央研究所社会経済研究所ディスカッションペーパーSERC24001。

電気新聞2025年4月21日