
◇歴史的大事業多く選定は難航 「見に行ける」なども重視
昭和の発電所から10を選ぶ、あるいは一つ選んで紹介するという作業など、とてもできないと思っていたが、実際に「都市と電化研究会」のメンバーが選んでみれば、やはりどうしても歴史的に重要な発電所、あるいは電力史、電化の光景として外せない発電所が選べない、という状況に陥った。
<写真説明>佐久間発電所を視察される昭和天皇と香淳皇后(1957年10月。画像をクリックすると拡大します)
本紙記事のほうに挙げた中でも、歴史的に大事なものとして日本最大の水力発電所である佐久間ダム・発電所(静岡)、原子力発電のフロンティアであり、1970年大阪万博との関わりでも歴史に名を刻む美浜発電所(福井)、その原子力発電技術の最大の成果である柏崎刈羽原子力発電所(新潟)にふれることができなかったし、水島発電所(岡山)、富山火力発電所あるいは富山新港火力発電所(いずれも富山)の燃料転換に向けた中国電力と北陸電力の技術的な努力と決断にも割くだけの紙幅がなく残念だった。同じような燃料転換発電所は北陸電力の敦賀火力発電所(福井)はじめ、現役のものが数多くあり、その経緯を含めて今日、見学することができる。
<写真説明>夏季のピーク対応に活躍する佐久間ダム(画像をクリックすると拡大します)
本紙では地熱発電所として大岳発電所(大分)をあげていたが、これらは建て替え中で現在見学はできない一方、日本最大の地熱発電所であり「見に行ける電化遺産」として九重高原・阿蘇に近く人気も高い八丁原発電所(大分)がリストに入れられなかった。筆者自身の見学体験でもっとも面白かった発電所でもあり、機会があれば別府や湯布院への旅に合わせてお薦めしたい。
<写真説明>地熱火力では国内最大の規模を誇る八丁原発電所(画像をクリックすると拡大します)
リストにはあったものの紹介できなかったという中で、発電技術の進歩という点で忘れてはならないのが東新潟火力発電所(新潟)である。初の純国産大容量コンバインドサイクル発電所として建設され、今日、依然として日本の中心的発電技術であるガスタービンの礎となっている。こうした東北電力とメーカー各社の努力は電化遺産の名にふさわしいものだ。
<写真説明>据え付け後の東新潟火力4-1号系列のガスタービン(2020年5月。画像をクリックすると拡大します)
◇発電技術エポックだけでなく 建築、歴史、文化など多面的価値
昭和初期のものでリストに入れられなかった発電所にも触れておきたい。戦前を代表するものとしては、奥津、上斎原(いずれも岡山)、豊川(島根)などの中国電力管内の水力発電所が登録有形文化財となっており、建築的価値が非常に高いものである。さらに戦前ものとしては、のちに日本最大級の水力発電所となる佐久間ダムの原型となる大久保発電所(静岡県・愛知県)も昭和2年(1927年)の完成である。昭和の発電所で今日まで残っているものは水力が圧倒的に多いので、結果として『超大物』というべき施設となり、小説や映画にもなった「ホワイトアウト」(真保裕一著、映画版:主演=織田裕二・松嶋菜々子)の舞台でもあった奥只見ダム・発電所(新潟、福島)も、一般国民には黒四と並ぶほど有名な発電所かもしれない。
さらに戦前、日本国内の発電投資は停滞した一方、日本企業が進出していた朝鮮半島では日窒コンツェルン(財閥解体後今日のチッソや旭化成に引き継がれた企業群)が巨大な水量を持つ中国国境の鴨緑江本流の電源開発に取り組んだ。当時世界第二位の規模となる水豊ダムを建設した上で合計165万キロワットという、日本国内ではありえない水力発電所群の建設計画を進めたことは、案外知られていない。敗戦後は現在の北朝鮮に引き継がれて現在も稼働中といわれている。
<写真説明>関西電力黒部川第四発電所(黒四)の定礎式を伝える電気新聞の紙面(1959年9月21日付。画像クリックで拡大します)
また今回、昭和の時代には自社での発電所がなかった沖縄電力、さらに北海道や四国の発電所を本紙の10選リストに入れることができなかった。四国の電力安定供給を支えてきた火力発電所、坂出発電所(香川)などは、当然あげるべき発電所であろう。
沖縄と北海道のエリアについては、『変わり種』を2つあげたい。一つは、時代が平成ではあるが、電源開発(Jパワー)が建設した沖縄やんばる海水揚水発電所(沖縄)である。海水を使った出力3万キロワットの発電所で、海を下部池、沖縄本島に上部池を建設し、水圧管路、水車、発電機は全て地下に設置され、有効落差は136メートルという世界的にも珍しいものであった。もう一つは北海道千歳市の王子製紙水力発電施設群。明治から戦前にかけて建設され、電力インフラがまだ整っていない時代から日本の紙・パルプ工業の拡大期をけん引し、ひいては北海道の工業生産と日本人の文化向上を支えた。土木学会選奨土木遺産にも選ばれている。
◇火力の昭和史そのもの 大震災からの見事な「生き様」
しめくくりに、戦後の火力発電における歴史証人ともいえる広野発電所(福島)について、その歩みを紹介したい。今日、多くの人が福島第一原子力発電所への視察等で宿泊するJビレッジの宿泊棟からもよく見える広野発電所は、かつて、東京電力唯一の供給区域外の火力発電所として計画された。もともとは常磐沖の天然ガスの利用を前提とした計画であり、これ自体が第一次石油危機・ガスの発電事業への利用期待という時代を反映している。昭和55年(1980年)、国内ガス利用と石油混焼で発電を開始したが、平成に入ってからは石炭に転換。6号機まで増設し、まさに需要増勢の続く首都圏の安定供給や経済運用を支える基幹発電所となった。
<写真説明>被災した広野火力で行われたタービン分解点検作業(2011年6月。画像をクリックすると拡大します)
東日本大震災(2011年)で被災し、壊滅的な被害を受けたが、最大2800人が入って懸命の復旧を続けたことで、約400万キロワット規模の発電設備をおよそ4カ月で復活させた。近隣で、同様に大きな震災被害を受けた東北電力原町火力発電所(福島)の早期復旧とも併せ、その年の東日本エリア計画停電の回避へ、大きく貢献する役割を担ったことを記しておきたい。2021年からは広野IGCC発電所として、空気吹きIGCC(石炭ガス化複合発電)という脱炭素時代における新たな火力発電の道を探るための検証も行われた。まさに時代とともに歩んできた電化遺産といえよう。
<写真説明>広野火力で行われたがれきの撤去作業(2011年6月。画像をクリックすると拡大します)