
◇モルックで福島と絆を
地方創生のキーワードとなっている「関係人口」と「2地域居住」。出向先の福島相双復興推進機構(相双機構)で福島県沿岸部「浜通り」の関係人口づくりに情熱を注ぐ東京電力ホールディングス(HD)社員と、浜通りで喫茶店を開いて東京都内との2カ所に居を構える同社OBの「思い」を取材した。

2月22日、スポーツ施設「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町、広野町)に相双機構まちづくり交流推進課長の川尻圭介が姿を見せた。相双機構が共催するモルック大会に参加するためだ。モルックはフィンランド発祥のスポーツ。相双機構はモルックを起爆剤に、移住せずに多様な形で地域に関わり続ける「関係人口」を浜通り地域などで増やそうとしている。
◇現地で実績
川尻は東電HDから相双機構に出向し、関係人口づくりに携わる。モルック関連事業に加え、首都圏の学生や会社員を福島県の新興企業に派遣する事業などでも実績が上がってきた。
川尻は福岡県出身。小学1年からラグビーを始めた。慶応大学へ進学後は19歳以下日本代表に選ばれたほか、レギュラーとして大学日本一に上り詰めた。ラグビー選手としては小柄ながら、得意なプレーはタックル。どんな巨漢が向かってきても怖くなかった。
2001年に東京電力入社。仕事の傍ら会社のラグビー部に所属し、引退後は監督を務めた。仕事では新規事業開発などで経験を積んだ後、女子サッカーなど会社が重点支援する「シンボリックスポーツ」の管理を10年7月から担った。
翌年3月11日、東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所事故が起きる。
◇厳しくても
川尻は当時31歳。直後には福島県いわき市に派遣された。向かった先は石炭受け入れ・貯蔵施設「小名浜コールセンター」。福島第一に物資を届ける物流拠点などになっていた。フォークリフトの免許を持たない川尻は、へとへとになるまで人力で荷物を運んだ。
4月中旬からは賠償業務へ。福島市を拠点に、避難を続ける被災者の元を巡った。事故直後で東電社員への風当たりは厳しい。罵声を浴び、土下座をすることもあった。神経をすり減らす仕事のはずだが、川尻は自身が置かれた状況を「当然」と受け止めた。
「事故の原因の多くは先人たちにあるのかもしれない。しかし誰かが事故対応を担わなければならないのだとしたら、それは東電で今働いている私なのだと思った。ラグビーと同じ。味方選手のタックルミスで相手選手が抜けてきたら、懸命に追いすがりタックルに向かうだけ」
その後は本社で、採用再開や分社化対応、海外事業開発などに従事。21年10月からは、浜通りに本社を置くグループ会社に出向し、福島に戻ってきた。
相双機構(福島市)で働き始めたのは24年7月。同じ部署には慶応大の先輩がいた。川尻と同様に東電HDから出向する吉武英明だ。

◇東電退職後のモデルケース/2地域居住、復興寄り添う
吉武は25年6月、62歳で東電HDを退職した。同社と相双機構に身を置いて痛感したのは「どんなに口で夢を語ろうとも、実行しなければ現実にはならない」ということ。福島復興も旗を振るだけでは進まない。第二の人生は「実行者」であることを貫こうと、震災後に一時駐在した福島県富岡町で喫茶店を開くことを決めた。
現在の店舗は、駐在時に通い詰めたカラオケ居酒屋「ハナミズキ」に間借りする形。来年3月11日までには常設店舗を富岡町内に設ける。吉武は「にぎわいを取り戻す一助になりたい」と語り、農業や養蜂、観光案内所開設にも意欲を示す。
吉武は富岡町で一人暮らし。東京都文京区の少年軟式野球連盟で審判部長を務めているため、週末は、妻が生活する都内の自宅で過ごすことも多い。「気分転換にもなるし、2地域居住は気に入っている」という。
そんな吉武の挑戦について、川尻は「東電社員が福島の関係人口となり、退職後に福島に住んで地域に寄り添うモデルケース」と評価する。くしくも政府は、居住地以外に住民登録ができる「ふるさと住民登録制度」を創設する方針。川尻は「東電グループの社員が福島の自治体に登録すれば、移住せずとも福島復興に貢献できる」と制度の積極活用を呼び掛ける。
「関係人口を海外にも広げたい」「新たなビジネスが次々に生まれる場所として認知度を高めたい」…。そう語る川尻は「福島第一事故の被災地に一生寄り添う」と心に決めている。気構えは、ただひたむきにタックルを繰り返した学生の頃と変わらない。どんな難題にもひるまず立ち向かう。
電気新聞2026年3月19日





