2017年4月25日火曜日
電気新聞
新聞購読案内 電気新聞デジタル

TOPニュース

[東日本大震災6年]震災時の女川原子力所長に聞く

2017/03/10  1面 

◆畏れが「備える」文化醸成/過去に学び、受け継ぐ
◇東北電力副社長 渡部孝男氏

東北電力副社長・渡部孝男氏

東北電力副社長・渡部孝男氏

 
東日本大震災からあす11日で6年を迎える。震源から近い東北電力女川原子力発電所で、渡部孝男副社長は当時、発電所長を務めていた。大津波に遭い被害も受けた中で、原子炉を安全に停止・冷却し、助けを求めてきた人たちを受け入れた。「先輩たちの備えに助けられ、所員が訓練で身に付けた確実な作業で乗り切れた」。運転経験のない発電所員が増える中、「備える、という進取の精神をDNAとして次代の人たちに伝える責務がある」と、とつとつと語ってくれた。(上田 一範)

 ◇冷静さ失わず

 ――女川原子力は、東日本大震災で幸い大事には至らなかった。振り返って、その理由として考えられることは何か。

 「思い出すと、あまりに大きな地震で地面の底が抜けたかと思うような揺れで、とっさに机の下にもぐったら、頭を何度も机の裏側にぶつけた。はいつくばったような状態で緊急時対策所に向かうと、予想もしていなかった大津波が襲ってきた。それでもしっかり原子炉を停止し、冷却することができた」

 「まず挙げられるのは余震が続く中でも、所員が普段の備え通り、冷静に確実な作業を行ったことだ。被害はゼロだったわけではなく、重油タンクが倒壊し、1号機では高圧電源盤の火災が発生し自衛で消火した。2号機では浸入してきた海水の放射能分析をしながら、海水をくみ出し流入量を少なくするよう努めた。総務課を中心に避難者のケアもした。様々な場面で、連帯したことが断面として乗り切れた理由だ」

 ――訓練の大切さを痛感した。

 「つくづく大切だと思った。それも見せる訓練ではなく、技術力を上げる訓練をしていたことが役立った。どこが弱いかを見つけるために、シナリオ以外の突発的な事象が起きる筋書きで行っていた。異動時期の後には総合訓練も欠かさない。役職が変われば役割が変わる。同じところにいても、ある意味『ベテラン』ではなくなる。何度も基本形を繰り返した上で、予期しないトラブルへの対応を訓練していくことが大事だ」

 ◇ベテランの声

 ――緊急時対策所へ移った後は、どのような状況だったか。

 「大ベテラン運転員の副所長が、大津波警報が出ているから原子炉の圧力を下げろと、先んじて指示を出していた。万一の場合、圧力を下げた方が水を外部から注入しやすい。そのために備えていた。1号機の火災は煙が充満して近づくことができなかった。現場に詳しい所員がフロアの対角線の先にある出口で下の階に下り、逆方向から回り込むと接近可能だと提案してくれた。施設の構造を体に染み付かせておく大切さを痛感した」

 ――さらに大事に至らなかった理由があると。

 「もう一方で、過去からあの日までのプロセスがある。1968年の社内委員会で敷地の高さを14.8メートルに設定してくれた大先輩たちのおかげであり、その後も知見が蓄積されるにつれ、それを反映してきた。中央制御室の手すりの設置、防潮堤の強化、海水ポンプのピット化、様々な耐震強化工事など、運転開始後も継続して安全性を向上させてきたことが大きい」

 ――震災以前から、新しい知見を取り入れ安全対策を積み重ねてきた。そうした文化、信条の背景にあるものは。

 「女川の場合、津波に対する畏怖の念だと思う。昭和、明治さらには貞観(じょうがん)までさかのぼった文献が残っている。多賀城(宮城県多賀城市)で、どのような被害があったかまで調べて対応した。それを参考に押し波だけでなく、引き波を考慮した構造物を造るなどした。地域の人たちの安全を守り、自分たちの身を守るように設計して建設され、運開後も受け継がれてきた」

 ――ご自身は福島県浜通りの小高地区(南相馬市)の出身だが、津波への感覚は違うのか。

 「三陸海岸と福島県とは少し感覚が違った。小さいころチリ地震で津波が発生し、三陸海岸には被害があったが、福島はなだらかな海岸線で大きな被害はなかった。宮城県から北側は、津波に気をつけろという文化があったと思う」

 ◇進取の精神で

 ――引き継がれている『東北電力の原子力文化』とは何か。

 「備える、という進取の精神。これはDNAとして、次代の人たちに伝える責務がある。そして、過去に学ぶということ。これは機械のトラブルなどハードだけではない。立地するために先輩たちが大変苦労され、築き上げた地元からの信頼や期待、さらには厳しい目がある。そこから学ぶ気持ちを大事にしていかなければならない」

◆「美談」にはしたくない/初心をもって、再出発へ

 ◇安心のために

 ――女川の地元の人たちから言われたことで印象的なことがあるとか。

 「あの巨大な防潮堤について、『お前のところの発電所だけが守れればいいのか。俺たちの浜は守らないのか』と。そのとき、人は逃げられるが発電所は逃げられない。ただ、戻ってきたときに復興の邪魔にならないように発電所を守っているので理解してほしいと伝えた。原子力は大変有用な部分もあるが、万一のときに周りの環境を損なわないようにして、その頑張りを見てもらった結果に、安心がついてくるものだと信じている」

 ――震災のとき、地元の人を発電所の中に受け入れた。

 「正直、美談と言われるのはすごく抵抗がある。美談にしたくて受け入れたわけではない。電気がなく、海水でずぶぬれの人たちが大勢、PR館に助けを求めて来られた。直接、発電所ゲートの警備所に来た人もいる。雪が降っている中、ノーとは言えなかった。着の身着のままで身分証明もない人がほとんどだったが、メモ書きしてもらった名前と住所を信じるしかなかった。ただし、発電所であるため指示に従ってもらいたい、勝手に出歩いたりしないでほしいと協力を求めた」

 ――水と食料が心配だった。

 「備蓄が1週間分あったが、避難者の人数などを考えると1日2食分にしかならない。全く先が見えていない状況だったので心配だった。ただ、翌朝にはヘリで水と食料を運んでもらいありがたかった。結局、長い人で3カ月弱、体育館に避難されていた。途中、『所長さん、家もなくなったんで出て行けって言わないでくれよなあ』と言われたこともあった。親戚に連絡をつけてあげたこともあった。救急車を何回呼んだか。そのときの人たちと今も顔を合わせることがある」

 ◇新設時と同様

 ――震災から6年を迎えるに当たり、次代を担う人々にメッセージを。

 「世代も替わり運転経験のない所員が、かなり増えてきた。女川1号機を初めて運転するとき、出向して運転経験のある先輩が後輩をしっかり教えながら動かした。先輩から学ぶという意味で、今まさに同じ状況にある。原田宏哉社長が『再出発であり、再起動ではない』と言われる通りだ。各パーツの健全性の確認が大事で、出力を少しずつ上げていきながら各箇所、機器の異常がないことを確認しつつ進めていく。一番初めの試運転のときと同じ気持ちで取り組んでもらいたい」

 ◆メモ◆

 <東日本大震災>
 2011年3月11日午後2時46分頃、宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0の国内観測史上最大の地震が発生。大規模な津波が発生し、波の最高到達点は40メートルを超え、太平洋沿岸部に壊滅的な被害を発生させた。東北電力の設備も甚大な被害を受け、延べ約486万戸の大規模停電となった。震源近くの女川原子力発電所(宮城県女川町・石巻市)は地震発生に伴い、全号機の原子炉が設計通りに自動停止。原子炉および燃料プールを冷却する機能は保たれ安全性は確保された。

 <東北電力の原子力文化>
 地震に対する「安全裕度」が女川原子力を救った。当初は想定津波の高さを3メートルとしたが、明治と昭和の三陸津波、さらには869年の貞観津波まで社内で検証、敷地の高さを14.8メートルとした。3.11の最大津波高さは約13メートル。地震で敷地は約1メートル地盤沈下したが、その13.8メートルの高さに守られた。さらに2号機設置許可申請時に、貞観津波の地質調査などを踏まえ、想定津波の高さを約9メートルに変更。これに伴い引き波対策も考慮し、防潮堤にコンクリートブロックによる法面防護の追加工事、海水ポンプ室を壁で囲む「ピット化」、非常用冷却水を確保するため取水路の傾斜の工夫など、逐次、対策を施していた。

 <地域とのつながり>
 津波発生後、女川原子力に協力会社も含めて約1500人が閉じ込められた。このほか見学に来ていた大学生や随行者が17人。PRセンターには、着の身着のままの格好で地元・鮫浦地区の区長らが助けを求めてきた。避難者は50人を超え、使い捨てカイロや毛布を配っても停電しているため、暗闇と寒さが襲った。渡部所長(当時)の判断で通勤用のバスを手配し、発電所に受け入れた。直接、発電所のゲートに下半身水浸しで訪ねてきた人もいた。事務本館だけでは収容しきれず体育館に移された避難者は、ピーク時360人を超え、最長約3カ月間を所員とともに過ごした。



>>この記事の続きは『電気新聞』本紙または『電気新聞デジタル』でお読みください

同じカテゴリーの最新記事